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2006/08/23

nomina sacra

 引き続き、話題は『書物としての新約聖書』のマルコ1.1「[神の子]イエス・キリストの福音のはじめ」に触れた箇所について・・・ただし、ここからは「正文批判の実例」の話になる。まず著者・田川氏の主張を見てみよう。

 「ではもしも『神の子』が原本にあったと仮定して、その場合に一部の写本が何故それを削除したのか。この難問にメッツガーはどういう答を出しているか。むろん意図的に「神の子」を削除することなどありえないとすれば、無意識の過失以外に考えられない。そこでメッツガーが考えついたのが、ここは語尾が同じ単語がいくつも並ぶから、こんがらがって、最後の二つの単語を見逃したのだろう、という理屈である。」(p.477)

 「おまけにこれは『イエス・キリスト』とか『神の子』とか、キリスト教にとって最重要の単語である。(中略)それを、綴りがほとんど同じというならともかく、語尾だけ同じだから不注意で見落とす、などと・・・・。見て来たような嘘もいい加減にしろ、といったところ。」( p.478)

 そして田川氏は「嘘」といいながらも、ご丁寧にもマルコの書き出しの部分のギリシャ語の綴りを、「ΑΡΧΗΤΟΥ・・・ΥΙΟΥΘΕΟΥ」とギリシャ語の大文字でいちいち引用し、

「二番目の単語以降六つの単語がすべてΟΥという語尾で終わっている。このように同じような単語が続くから、ある写本家が不注意にも、最後の二単語(神の子)を見落としたのだ、というのである。」(p.477)

というようにメツガー氏の説を紹介し、以後も1ページ強にわたって氏への執拗な悪口を並べている。

 しかし、ここで使われている「イエス」「キリスト」「子」「神」という単語は、(もっぱらネストレ等で新約聖書を読んでる場合にはわからないことだが)当時の写本では nomina sacra =ノミナ・サクラ(「聖なる言葉」の意)という慣習に従い、短く縮めて筆写していることが極めて多い言葉だ。多くの場合、田川氏の引用のようには書かれておらず、

ΙΥ ΧΥ ΥΥ ΘΥ
 (「イエス」「キリスト」「子」「神」 のそれぞれ縮約形。実際には、nomina sacra であることを示す上線が付く) 

という感じで表記されている(もちろん短縮の仕方には、いろいろあるのだけど)。だからちょっと本文批評をかじった者でも、「同じような単語が続く」「活用語尾だけ同じ」(p.477)とか言えるような箇所ではなく、ましてやメツガーともあろう専門家がこんな素人学者のようなことを書くはずない、とすぐわかる個所だろう。当然のことながら、メツガー氏の「The Textual Commentary on the Greek New Testament(2nd.ed.)」にあたれば、やっぱりこれは田川氏の「見てきたような嘘」だとすぐわかる。この本の記述によれば、メツガー氏は「 nomina sacra の endings の類似」により起こった筆記者の見落としで生じただろう、と書いているだけ(p.62)。やれやれ。

 nomina sacra 程度のことをいかに新約学者であっても知らないわけもなく、ましてやこれは『書物としての・・・』にも紹介されているメツガー氏の『新約聖書の本文研究』あるいは『ギリシア語聖書の写本』(教文館)を読めば、ちゃんと書いてあることである(田川氏は、原語でお読みになったそうだ)。にもかかわらず、ありもしないような表記法で聖書を引用までした上で、他人の説をわざわざ数ページにわたって間違っているように紹介するのは、我々素人相手とはいえちょっとやり過ぎだろう。田川氏がそう思うのは勝手だが、少なくとも、「六つの単語がすべてΟΥという語尾で終わっている」などとメツガー氏が書いているようには紹介しないで欲しいところだ(もしかして、これは、ディアトリベー?)

 この種の本としては珍しく「第三章・新約聖書の写本」という一章を設けて、聖書の正文批判、写本とその本文型、聖書の正文批判などについて詳しく取り上げている(100ページ強も!)。その意味では非常に貴重な本だけに、いかにも惜しい。

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