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2009/11/17

オリジナルは一つ?

 またまた昨日の発言の続き。

 蛭沼先生の遺稿出版に関する募金の呼びかけ記事(関西学院大学のHP)には、先生のプロフィールや主な著書についての情報が掲載されている。そのあとに、「◎本文研究とは?」という解説記事が合わせて載せられている。そのこと自体は特に問題はないのだが・・・その記述の一部に、「?」となってしまった。曰く、

 新約聖書の原典がギリシャ語で書かれており、日本語の聖書はその翻訳であるということくらいは、たいていの人が知っている。しかし、その原点のオリジナルが全く存在しないという事実を考えたことはあるだろうか。新約聖書の原典は、手書き写本によって今日に伝わっているのだが、パピルス写本と羊皮紙の大文字写本だけで四百、小文字写本にいたっては三千近くもの数が残されている。そして、写本の間で本文が相違しているという場合が非常に多い。もちろん、オリジナルの「読み」は一つだけであり、他の「読み」は二次的な変更である。そこで、写本を比較検討し、どれがオリジナルの「読み」であるかを確定する作業が必要となる。それが「本文研究」である(後略。これはそのHPにも記述があるように、「蛭沼寿雄先生の死を悼む 新約本文研究に一大金字塔築く」という『福音と世界』2001年5月号の追悼記事からの転用である)

 僕が「?」と思うのは、<オリジナルの「読み」は一つだけであり、他の「読み」は二次的な変更である>というくだり。新約聖書、さらに言えば福音書のようにその成立の背後に複数の伝承(口承もある)の存在が想定されるような場合に、「オリジナルは一つ」と言い切るようなナイーブな物言いはむしろひさしぶりに聞いたという気がする。確かに、異読の多くは、「二次的な変更」にあたるかもしれない。でも唯一無二の「オリジナル」があったかと言えば、それはわからない。例えば、福音書が初めてひとつの文書に「なった」時でさえ、それはいくつものバージョンから取捨選択された可能性があり、本文は絶えず揺れ動いていたはずである。というとネストレのような正文批判を得て再構築されたテキストはどうかと思う方もあるかもしれないが、これはある意味、理論的な仮構物であり、逆に言えばネストレと100%同じ写本は、この世には存在しない。でも、新約学者など自分が写本等にあたらずちょっと外側から正文批判の成果を利用している人には、簡単に「この読みが正しい。オリジナルだ。異読は後世の修正である」とかいう物言いをする人が結構多いのも事実だから、この文章の筆者がひとり見当違いなわけではないのだろう。まあ、ことほど左様に、正文批判は難しい仕事、蛭沼先生のような方が生涯をかけて取り組むべき仕事であるということだ。

 余談だが、何もこうした事情は、厳密な意味での筆者がいないような古代文書に限った話ではない。モーツァルトの作品(18世紀)などもすでに原典版の編集が終了しているが、2つ以上の資料(自筆譜や写譜、パート譜、出版譜)から現代の学者が妥当性の高いと部分を組み合わせてひとつの決定版バージョンを作ろうとして、結果、歴史的にはどの時期にも一度も存在しなかった仮構の楽譜になっている場合がある。もっと身近な例で言えば、夏目漱石の小説(19世紀)でも、基本的に自筆原稿、雑誌や新聞(東京版、大阪版)に掲載された活字、さらには初めて単行本になった時の活字という3つないし4つの資料があり、それぞれに漱石の修正、編集者(校正者)による変更、不注意のミス等が想定されるので、結果的にどれがオリジナルかは実は誰にも(おそらく漱石にも!)決定できないのだ。最近では、むしろ良心的な原典版編集者は、一つのオリジナルを特定するのではなく 、豊富な異版報告、脚注をつけて読者に選択肢を与えるような方向で編集作業に取り組んでいると言える。学問には、絶対に「正しい」ことなどめったにない、それが我々の世紀の教訓だろう。

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