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2018/06/20

岩波訳「使徒行伝」への土岐氏の批評(その2)

 (その1)からの宿題で、15:18の節番号についての補足。以下が、土岐健治氏の指摘である。

 15:18 の冒頭部分は,底本通り,ゴチックにすべきであろう。また,「この」は,底本通り,「これらの」と訳すべきであり,かつ,「これらの」以下は,18 節ではなく,17 節とすべきである。

 これでは分かりにくいと思われるので、荒井献が訳した全文および註の文章を示そう。

15:18 昔から知らされていたこのことを行う主が、
こう言われる
_
_ アモ九11-12(七十人訳)。ただし、この引用のうち「昔から知らされていた」の句のみがイザ四五21に対応。また、原文ではこの句のみが18節とされている。

 この節自体は前節も含め構文のつなげ方でいろいろな訳がありうるのだが、「こう言われる」にあたる部分が、底本(ギリシャ語)では17節にある点は、とりあえず土岐氏の言い分どおりである。ただしその点は上記のように荒井氏も註で断っているし、(その1)で触れた27:10同様、口語訳やフランシスコ会訳などでも18節の最後に置いている(新共同訳では、これらを2節をまとめ「17-18」と表記している)。「こう仰せになった。」の句で終わる方が、日本語としていかにも収まりがいいからだろう。

 また、底本でイタリック体になっている 旧約聖書の引用部分について、「土岐氏が ゴチックにすべき」と書いているのは、正確には「太明朝体にすべき」が正しい。またここで指摘されている句、つまり底本でいう本来の18節は、上記荒井氏の註にあるようにここのみアモス書にはなく、イザヤ書に対応する文がある。確かに底本であるネストレ27版はこの句もイタリックにしているが、「凡例」では「訳者の判断で範囲の設定が様々に異なる場合がある。これも特別な場合を除き、注記しない。」と書かれているし、「連合聖書版 USB4」は荒井氏と同判断で、イタリック体にしていない。(注1)

 上記のほかにも底本が使っている「角括弧=[ ]」、つまり底本中にある括弧についてもいくつか指摘がある。土岐氏の指摘では基本、「角括弧」を「カギ括弧」(本来のカギ括弧はこちら=「 」)、また「亀甲括弧」を「括弧」と表記しているようなので、やや議論がわかりにくくなっているが、少なくとも以下の点は考慮に値する。

 7:43 の,「お前たちの」は,底本ではカギ括弧に入れられているので,訳文でもカギ括弧に入れるべきである。※(正しくは角括弧)
 15:24 の,「そちらに行き」は,底本通り,カギ括弧に入れるべきであろう。※(正しくは角括弧)

 ただし26:7についても、土岐氏は15:24と同様の書き方で「「神に」は,底本通りに,カギ括弧で括るべきである。」と記しているが、底本には「カギ括弧」はない(他のいずれの括弧も)。土岐氏は「神に」を訳者の敷衍ととったのかもしれないが、ここは「latreuon」という語を「神に仕えて」と訳しているだけだろう(口語訳、新共同訳、フランシスコ会訳等も同じ訳)。また22:28で、「「ローマ[帝国の] 市民です」は,全体をカギ括弧で括るべきである。」とあるが、ここも底本には「カギ括弧」も他の括弧もない。ただし、原文には「ローマ市民」にあたる語はないので、土岐氏的には「私は、生まれながら〔ローマ市民〕です」等とすべきだと指摘したかったのだろう。また、5:20,21 の指摘にある「神殿[境内]」、19:13 の「[霊能] 者」、21:26 の「神殿[境内]」については、正しくはいずれも「亀甲括弧=〔 〕」、つまり訳者による敷衍箇所である。むしろ、底本が使っている「角括弧」の扱いとしては、以下のような箇所に言及すべきではなかったか。

 3:13に列記されている神の名について、荒井訳では「アブラハム[の神]、イサクの[の神]、ヤコブの神」となっているが、底本(ネストレ27版)では「アブラハムの神、イサク[の神]、ヤコブ[の神]」である。
 6:13の後段、「聖なる場所」では、底本に従い「[この]聖なる場所」と、角括弧つきの「この」を補うべきだろう。
 9:12の最後の部分、「幻で見たのだ」では、底本に従い「幻で」に角括弧をつけるべきだろう。
 13:31の後段、「そして、彼らは今や民に対して、イエスの証人になっています。」では、底本に従い「今や」に角括弧をつけるべきだろう(また、「イエスの」は原文では「彼の」)。

 また、底本から離れた箇所としては、14:25 の「「ベルゲ」は,「ペルゲ」が正しい。」と指摘されていて、これは単なる誤植だろう(注2)。一方、27:16の「「クラウダ」は、「底本通りに,「カウダ」とすべきである。」という点は土岐氏の指摘どおりで、ネストレ27版は「カウダ」を採っている。が、「クラウダ」という異読も有力で、口語訳、フランシスコ会訳も「クラウダ」である。

 以上、土岐氏の批評箇所の一部を見てきた。その100箇所近い指摘がすべてあたっているというわけではないにしろ、このような対話を経て日本語の代表的な聖書翻訳のひとつがさらによくなっていくのは貴重なことだろう。実際、(その1)で触れた改訂のほかにも、上に見た角括弧の扱いなどは荒井氏の注解書『使徒行伝 上・中・下』(新教出版社)では直されている箇所もある。建設的な対論が、引き続き聖書の学びに資することを期待したい。

(注1)ちなみにネストレ28版も引用とはしていない。田川建三氏も、「引用ではない。せいぜいのところ似たような文という程度。」としている。
(注2)岩波版『ルカ文書』の初版でも、付録の地図では「ペルゲ」となっている。ただし本文においては、『新約聖書II ルカ文書』初版の第6刷(2001年)、『荒井献著作集 別巻』(岩波書店、2002年)でも直されていない。

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