« 『聖書協会共同訳』近日発売 | トップページ | 『新改訳2017』の公同書簡(その6) »

2018/12/08

『新改訳2017』の公同書簡(その5)

 夏前から『新改訳2017』において新版の異同を考慮したと思われる翻訳箇所を追ってきた。来週出る予定のネストレ28/USB5 を底本とした『聖書協会共同訳』ではどうなっているかを確認するためにも、いくつか補遺的に触れておきたい。

◯ヤコブ書1:21 ですから、すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植えつけられたみことばを、すなおに受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。(聖書 新改訳 c1970,1978,2003 新日本聖書刊行会)
●1:21 ですから、すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植えつけられたみことばを素直に受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。(聖書 新改訳2017 c2017 新日本聖書刊行会)

 この箇所は、ネストレ28/USB5 のいわゆる変更リストには上がっていないが、原文のコンマの位置が問題になる箇所。「prautēti 素直に(穏やかに)」という語の後ろにコンマを入れると、それ以前の部分にある1)「捨て去り(除いて)」という語にかかることになる。ネストレ26/27版がこれを採用している。一方、コンマがないと、2)「受け入れ」という語にかかる可能性が出てくる。ネストレ25以前はそうだったので既存の訳でも、

○口語訳1:21 だから、すべての汚れや、はなはだしい悪を捨て去って、心に植えつけられている御言を、すなおに受け入れなさい。御言には、あなたがたのたましいを救う力がある。

としているものもある。逆に、ネストレ27版を定本にする「新共同訳」は、

○新共同訳1:21 だから、あらゆる汚れやあふれるほどの悪を素直に捨て去り、心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい。この御言葉は、あなたがたの魂を救うことができます。

となっている。ちなみに、ネストレ28版はコンマをとっているので、ネストレ25以前同様どちらでもとれるということになる。ネストレ24版による新改訳旧版が1)なのは当然としても、新改訳2017でも1)となっているのは28版の判断に従った、少なくともネストレ26/27の読みは採用しなかった、ということができるだろう。その証拠に、2017版の欄外の注には、「別訳 「素直に」を「捨て去る」にかける」とある。(※1)

◯第2ペトロ2:6 また、ソドムとゴモラの町を破滅に定めて灰にし、以後の不敬虔な者へのみせしめとされました。(聖書 新改訳 c1970,1978,2003 新日本聖書刊行会)
●2:6 また、ソドムとゴモラの町を破滅に定めて灰にし、不敬虔な者たちに起こることの実例とされました。(聖書 新改訳2017 c2017 新日本聖書刊行会)

 ここは原文の解釈も、日本語訳の解釈も、それぞれ難しい。「不敬虔」と訳されている語の品詞が、1)形容詞(の名詞化したもの)「asebesin 不敬虔な(人々)」と、2)動詞(の不定詞)「asebein 不敬虔を行う」という2つの読みがある。ネストレ26/27版は前者1)を [  ] 付きで採用しているので、保留付きながら「実例/将来の(属格)/不敬虔な人々に対する(与格)」(原文順)という意味になる。新共同訳はこれに近い。

○新共同訳2:6 また、ソドムとゴモラの町を灰にし、滅ぼし尽くして罰し、それから後の不信心な者たちへの見せしめとなさいました。

 これに対し、ネストレ旧版は2)の読みなので、「実例/将来するであろう人々の(属格)/不敬虔を行う」という意味になる。例えば、口語訳はこちらに近い。

○口語訳2:6 また、ソドムとゴモラの町々を灰に帰せしめて破滅に処し、不信仰に走ろうとする人々の見せしめとし、 

 新改訳旧版もこの口語訳と同じようにネストレ旧版を底本に持っているのだが、ここでは底本に従わず意味的に通りやすいネストレ26/27版と同じ読みを採用していたのではないだろうか。さらにややこしいことに、ネストレ28版は、旧版の読みに復している。これを底本にした新改訳2017では、「不敬虔な者たちに起こることの実例」と訳しているが、これは日本語として微妙だが、2)を訳したものには見えない。欄外の脚注に、「不敬虔になろうとしている者たちの」という「異本」の訳を示していて、こちらの訳の方が2)に近いようだ。この点だけから言えば、ネストレ28版には従わなかったことになるのだが。

◯第2ペトロ2:11 それに比べると、御使いたちは、勢いにも力にもまさっているにもかかわらず、主の御前に彼らをそしって訴えることはしません。(聖書 新改訳 c1970,1978,2003 新日本聖書刊行会)
●2:11 御使いたちは勢いも力も彼らにまさっているのに、主の御前で彼らをそしって訴えたりしません。(聖書 新改訳2017 c2017 新日本聖書刊行会)

 ネストレ26/27版の読みは、「もと(元)」「傍ら」という意味の前置詞「para」に、属格の「主」がついていた。「その場合は天使たちの裁きの出所が神であることを示す(岩隈直氏『希和対訳つき  新約聖書 12B』)」ので「主のもとから」「主から」というような意味になる。これに対し与格の「主」を採用し、「主のもとで(田川建三氏『新約聖書 訳と註6』)」「主の前で(岩隈直氏前掲書)」とするのが、ネストレ28版である。新改訳第3版の「主の御前に」とはかなり微妙な差で、こちらも元々、ネストレ旧版どおり与格のつもりだったと思われるが、新改訳2017では「主の御前で」とはっきりネストレ28版を踏まえた訳をしている。後者は、ビザンティン系写本に多い読み。上記、田川氏は、ネストレ26/27版が前25版から「主のもとから」という読みに変えたことについて、「一つには基本的にビザンチン系を忌避しすぎる彼らの傾向のせいだろう。」とし、珍しく「ここは二八版が旧版に回帰したのは正しい。」と書いている。(※2)

◯第2ペトロ2:20 であり救い主であるイエス・キリストを知ることによって世の汚れからのがれ、その後再びそれに巻き込まれて征服されるなら、そのような人たちの終わりの状態は、初めの状態よりももっと悪いものとなります。
●2:20 であり、救い主であるイエス・キリストを知ることによって世の汚れから逃れたのに、再びそれに巻き込まれて打ち負かされるなら、そのような人たちの終わりの状態は、初めの状態よりももっと悪くなります。(聖書 新改訳2017 c2017 新日本聖書刊行会)

 ここは新旧新改訳には大きな差異はないが、ギリシャ語原文では1)「Kyriou 主」という語のあとに「hēmōn 私たちの」という修飾が [  ] 付きで続いている写本がある。ネストレ26/27版がこれを採用しているので、新共同訳はこうなっている。

○新共同訳2:20 わたしたちの主、救い主イエス・キリストを深く知って世の汚れから逃れても、それに再び巻き込まれて打ち負かされるなら、そのような者たちの後の状態は、前よりずっと悪くなります。

 一方、2)ネストレ24版による新改訳旧版は「わたしたちの」なし。ちなみにECM1 では、2)の読みに同様の価値があるとの注記付きで、1)を initial text として掲載( [ ] はなし )。ECM2 では、2)に変更、 hēmōn 自体を initial text から削除した。ネストレ28版もこれを採用したので、新改訳2017も同じく「わたしたちの」なしになったと思われる。

(※1)ちなみに、ギリシャ語聖書の写本には、カンマはない(というより、語と語とのあいだの区切りもない!)。
(※2)田川氏は、「二六、七版が「主のもとから」という読みを採用したのは、多分、比較的最近発見されたパピルス写本(P72は一九五九年にはじめて公表された)を知っているところを見せたかったのだろうが(どの学問の世界でも時々この種の新しいもの好き知ったかぶりが顔を出す)」という説も同時に披瀝している。

|

« 『聖書協会共同訳』近日発売 | トップページ | 『新改訳2017』の公同書簡(その6) »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 『新改訳2017』の公同書簡(その5):

« 『聖書協会共同訳』近日発売 | トップページ | 『新改訳2017』の公同書簡(その6) »