2019/09/22

聖書翻訳の訂正について(補足2)

 前回の続き。

3)1ヨハネ 3:7 子たちよ >> 子どもたちよ
※ここは以前、USB5=ネストレ28版で本文変更があった箇所として、このサイトで以下のように紹介していた。

●子たちよ、誰にも惑わされないようにしなさい。義を行う者は、御子が正しいように正しい人です。(聖書協会共同訳)

 「子どもたちよ teknia」が、USB5=ネストレ28版で「幼い子どもたちよ paidia」という語に変わった。「聖書協会共同訳」の「子たちよ」は、「口語訳」「新共同訳」と同じで変わっていない。おそらく底本には従わなかった箇所の一つにあたるが、こちらについては訳注欄にも特に記載はない。ちなみに「新改訳2017」は、「幼な子たち、」を採用、底本を変えたことを明らかにしている。

 僕はそこに「聖書協会共同訳」が底本には従わなかった箇所」というように書いた。が、今回、変更・訂正箇所として挙げられていたので、再度調べ直してみた。ネストレ26/27版によれば、第1ヨハネ書には「teknia」と呼びかける箇所が7箇所ある(新約では、他にヨハネ福音書に1箇所)。2:1, 2:12, 2:28, 3:7, 3:18, 4:4, 5:21 で、「聖書協会共同訳」ではいずれも「子たちよ、」という訳になっている。一方「paidia」を使った箇所は2箇所。2:14 2:18 で、こちらは「子どもたちよ、」と訳している。今回の修正で、1ヨハネ 3:7 を「子たちよ」から「子どもたちよ」に変更したということは、訳文の対比からは「paidia」を訳したという推定になる。この辺の事情は、直接的には関係ないにせよ、田川建三氏の「新約聖書 訳と註6(作品社)」を読むと、よく理解できるかもしれない(1ヨハネ 2:14 についての記述)。

14 子どもたちよ 一二節の「子ら」は一節にも出てきた teknia という語。こちらは paidia(どちらも複数)。うるさく言えば両者に意味の区別はあるが、この著者は意味を区別して用いている様子はないので、どちらも「子ら」と訳しておけばいいのだが、一応違う単語だとわかるように訳し分けておいた。ここは多分、「あなた方は父を知った」の「あなた方」を指すので、それなら「子どもたち」にしようか、というだけのこと。(p.440)

 当初からUSB5=ネストレ28版を訳すつもりだったが校正ミスをしたのか、それとも発表の後で気づいたのかは判然としないが、少なくとも訂正後の訳文は底本での本文変更を明示しているようだ。これは、「子」を「子ども」にしただけに留まらない大きな意味のある変更だろう。あるいは、このように単なる翻訳の変更・修正箇所からも、聖書本文の取り扱い方が見えてくるというのは、おもしろい現象には違いない。

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2019/09/21

聖書翻訳の訂正について(補足1)

 前回、「聖書協会共同訳」の変更・訂正について触れた。そのほとんどがルビの訂正や表記の統一なのだが、本文解釈に関わる修正も若干とはいえ、ある。以下、新約について挙げておく。

1)ヨハネ 8:52 決して永遠に >> 決して
※「私の言葉を守るなら、その人は決して永遠に死を味わうことことがない」という話文から、「永遠に」をとったもの。こちらは、おそらく前節 8:51 の「私の言葉を守るなら、その人は決して死を見ることがない。」に合わせた修正と思われる。どちらにも「ヨハネ」が好んで使う「eis ton aiōna」という同じ成句が入っている。「アイオーン」は「時代」「世代」という意味の語で、未来のことを言うときは「永遠に(わたって)」という意味になる(ヨハネ 6:51, 6:58, 8:35, 8:35, 12:34, 14:16)。ただし、これをこの成句が「Ou mē =決して〜ない」という否定表現に続く場合は、単に<否定の強調>と見る考えもあって、この場合は「決して」とだけ訳される(ヨハネ 4:14, 8:51, 8:52, 10:28, 11:26, 13:8)。例えば、「口語訳」は 8:51, 8:52 とも「いつまでも」、「フランシスコ会訳」も両者とも「永遠に」なのだが、「新共同訳」は両者「決して」のみ。いずれの訳もあるところだし、「永遠に」のあるなしで全体の意味は大きく変わらないだろうが、今回の訂正は 8:51 と揃える意味では、必要な訂正だったろう。

 余談ではあるが、否定語を伴うが故に「決して」訳す後者のグループ中でも、13:8 だけは「私の足など、決して洗わないでください(聖書協会共同訳)」のように「決して」と訳す方が多い(「口語訳」も、「フランシスコ改訳」も、「新共同訳」も同じ)。その中で、田川建三氏は「1ヨハネ」中のすべての「eis ton aiōna」を「永遠に」と訳していて、ここも「私の足なぞ永遠にお洗いになってはいけません」としている。この文脈で「永遠に」を使うと、少し違うニュアンスが生まれると思うが、特に註では触れられていない。

2)マタイ 9:1 『引照・注付き』版聖書の注 c直訳「海」>> c「湖を」は補足
※この箇所は、昨年末に辻学氏が Twitter で指摘されていた箇所を直したもの。

「マタイ9:1「イエスは舟に乗って湖を渡り」。「湖」に注がついていて、直訳は「海」だとある。けど原文には「海」にあたる名詞はない。(2018年12月25日)Tsuji Manabu/@crossroad_learn」

 「マルコ」「マタイ」、さらに「ヨハネ」は、ガリラヤ湖をガリラヤの「うみ = thalassa」と表記する。例えば、マタイ 8:24「海で嵐が起こって」のように。ただ、9:1 では、「dieperasen = 渡る」とだけあって「海」の語はなく、多くは「イエスは舟に乗って海を渡り、自分の町に帰られた。」のようにこの語を補うことが多い。辻氏によれば、「聖書協会共同訳」の「パイロット版では、8:24も9:1も「海」」という表記だったとのこと。ただし、「旧共同訳」や「新共同訳」が「湖」表記であり、「聖書協会共同訳」も最終段階では両者とも「湖」に直している。その上で、「直訳「海」」という注を付けたのである。これは、他の「湖」表記でも同じで、マタイでは、4:15, 4:18, 4:18, 8:24, 13:1, 14:25, 15:29, 17:27 に「直訳「海」、直訳「海辺」、直訳「海沿い」」などの注を付けている(ただし、8:26, 8:27, 8:32, 14:26では、「同一章の中に繰り返される場合は、初出のもののみを示す。」という原則に従い、注記は省かれている)。

「それを「湖」に直す最終段階で慌てて作業したから、こういう事が起こったのだと考えられる。9:1の方は翻訳上の補いだということをうっかり忘れたわけだ。(2018年12月25日)Tsuji Manabu/@crossroad_learn」

というのが真相のようである。ちなみに同じ福音書記者でも、ギリシャ語に堪能な「ルカ」は、「湖」と言う意味の語「limné」を使う。実際、それが普通だそうだが、「マルコ」だけでなく、「マタイ」も「ヨハネ」もなぜか「thalassa」だけを使う。それだけに、バウアーの辞書などで「thalassa」の語釈で「sea」のほかに「lake」の項を立て、後者には「a Semitic usage」(セム語的語法)との注をバウアーは付けている。なので、「ガリラヤ湖」「湖」という日本語訳でも構わないとも言える。だが、やはり、

「そもそも、「海」は「海」と訳せば良かったんじゃないだろうか。「ガリラヤの海辺」(マルコ1:16等)と直訳しても、大して違和感はないし、「湖」を「海」と書いていることがちゃんとわかる(ルカがそれを直していることも=ルカ5:1)。ここは新共同訳を踏襲しない方が良かった。(2018年12月25日)Tsuji Manabu/@crossroad_learn」

という考えも当然である。実際に、田川訳はそうなっている。

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2019/09/17

聖書翻訳の訂正について

 最近、Twitter 上で話題になっていたが、昨年末に出た「聖書協会共同訳」の「聖書語句訂正一覧」が一般財団法人日本聖書協会の HP で公開された。

『聖書 聖書協会共同訳』初版発行後に生じた変更・訂正箇所につきましては、下記に記載されているとおりです。
( )は訂正決定日を示し、逐次、重版、新版に反映していく予定です。
https://www.bible.or.jp/read/si_word_correction.html

とのことで、今回はすべて(2019/8/30)付けになっている。旧約:55、旧約続編:17、新約15、本文以外(凡例、巻末付録、小見出し、柱)15、引照・注10、合計112箇所という数になる。このうち「ルビ」の訂正が一番多く、26箇所(うち、「ルビ振り」が2箇所)。「ルビはaiに任せた感じの間違いですね。」という評もあるとおり、ソフト上で自動的にルビを打って、結局、修正もれとなったような箇所も多い(特に旧約、旧約続編)。あと多いのは、漢字表記の修正22箇所などであり、ただしこれらは単純ミスだけに読者も気づきやすい(あるいは意味的な差異はほぼない)。むしろ、以下のような場所は数こそ少ないものの、初版等をお持ちの方は付箋でも貼っておくほうが望ましいだろう。

◯出エジプト記 14:12
荒れ野で死ぬよりはエジプト人に仕えるほうがましです。」
→ 私たちはエジプトであなたにこう言ったではありませんか。『放っておいてください。私たちはエジプト人に仕えます。荒れ野で死ぬよりはエジプト人に仕えるほうがましです。』」

 ちなみに、新約研究者の辻学氏は、自らの Twitter で、以下のように発言されている。

新共同訳も、旧約+続編+新約で290箇所にも及ぶ訂正を入れている(加えてその他の部分に85箇所前後)。協会共同訳の112箇所が少なく見えるから怖い。ただし協会共同訳は初版第1刷でこの数ではあるが。新共同訳も協会共同訳も、使うときはどの版かに気をつける必要あり。 https://www.bible.or.jp/read/read08.html 」(2019年9月1日付け

 参考までに「新改訳2017」の方も、2019年5月15日付けで43箇所の「変更・訂正箇所」を公開していて、こちらは「印刷用PDF」も用意している(>>こちら)。修正箇所の多い少ないは別にしても、『聖書 聖書協会共同訳』の方も、今後きちんとこのような印刷用の正誤表を出していっていただきたいと思う。そうであれば、旧版を買った人も、本にはさんでおくことができるだろうから。

(2019/11の注記)当初、記事にはこのように書いたが、日本聖書協会の上記 HP で「『聖書 聖書協会共同訳』訂正一覧 印刷用pdfファイルダウンロード/見開きA5判(139KB)/見開きB5判(139KB)/見開きA4判(139KB)」がすでにアップロードされていた。

 また「聖書協会共同訳」では、今秋に「スタンダード版」と題し小型・中型のバージョン(5種)を出している。こちらは引照・注は省かれているそうであるが、この処置はどうだったか。注付きであることが、「聖書協会共同訳」の重要なアドヴァンテージだったはずだが・・・。ちなみに『新改訳2017』の方は、「児童版」新約聖書でもちゃんと「注」は付いている(巻末にまとめて表示。ただし引照はなし)。上記変更・訂正も反映しているようだし、これはベッドサイド等に置いておくのにも便利な一冊だと思う。

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2018/12/27

『聖書協会共同訳』の公同書簡(その5)

 第1ヨハネに続き、第2ヨハネ5節。

●(1:)5 さて、婦人よ、あなたにお願いしたいことがあります。私が書くのは新しい戒めではなく、私たちが初めから持っていた戒め、つまり、互いに愛し合うということです。(聖書協会共同訳)

 ギリシャ語原文の語順の問題。「命令/新しい/私が書いている/あなたに」(USB3=ネストレ26/27版)か、「命令/私が書いている/あなたに/新しい」(ネストレ旧版、USB4=ネストレ28版)か。「新しい」という語の位置が問題になるわけだが、「聖書協会共同訳」は、「わたしが書くのは新しい掟ではなく、」という新共同訳とほぼ同じ。語順の変更が訳文に及ぼした影響は見られないようだ。

 最後は、ユダ書5節から。

●(1:) 5 あなたがたは十分承知していることですが、思い起こしてほしい。主は一度は民をエジプトの地から救い出しましたが、次に信じない者たちを滅ぼされました。(聖書協会共同訳)

 こちらにも書いたことだが、この節は非常に異読が多い箇所である。そのうち大きな論点としては、まず「一度は」という語のかかり方。「聖書協会共同訳」では後節の「救い出す」にかけて訳しているが、これは USB3=ネストレ26/27版以前の読み。一方、USB5=ネストレ28版では「一度は」という語が前節の「知っている」に係る。次に問題となるのは、後段の主語。「聖書協会共同訳」では「主」だが、これは USB3=ネストレ26/27版の読み。ネストレ28版では「イエス」に変更されている。結果、「聖書協会共同訳」は、上記2箇所とも USB5=ネストレ28版の読みを採用しなかったことになる。つまり、「あなたがたは万事心得ていますが、思い出してほしい。主は民を一度エジプトの地から救い出し、その後、信じなかった者たちを滅ぼされたのです。 」と訳した新共同訳と同じ本文を訳していることになる。ちなみに「新改訳2017年」は、ネストレ28版の読みを採用していた。

 以上、最新の邦訳聖書である『聖書協会共同訳』から、USB5=ネストレ28版において本文改訂のあった個所の取り扱いを追ってきた。その結果を簡単にまとめると以下のとおりとなる(全22箇所中、判定不明の2箇所(2ペテロ3:16、2ヨハネ5)を除く)。

・「新改訳2017」「聖書協会共同訳」がともに USB5=ネストレ28版を採用>> 箇所
※「新改訳2017」1箇所(ヤコブ1:20)は、推定。

・「新改訳2017」が USB5=ネストレ28版を採用。「聖書協会共同訳」は非採用>>8 箇所
※「聖書協会共同訳」1箇所(1ペトロ2:15)は、推定。

・「聖書協会共同訳」が USB5=ネストレ28版を採用。「新改訳2017」は非採用>>2箇所

・「新改訳2017」「聖書協会共同訳」がともに USB5=ネストレ28版を非採用>>1箇所

・訳中で異読に触れている箇所は、「新改訳2017」は11箇所。「聖書協会共同訳」は14箇所

 以上を見る限り、「新改訳2017」の方が新しい読みの採用にやや熱心だったことになるが、訳中で異読に触れている箇所は「聖書協会共同訳」の方が多い。いずれにせよ、こうした邦訳の変更が聖書本文の異読問題に触れるきっかけになるのであれば、それはそれで大いに意義のあることだろう。
(※2019年8月30日付けの「聖書協会共同訳」初版発行後に生じた変更・訂正で、1ヨハネ 3:7 の訳文が変更になった関係で、上記集計を一部変更した。>>詳しくは、こちら

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2018/12/20

『聖書協会共同訳』の公同書簡(その4)

 第2ペテロに続き、第1ヨハネ書について見て行く。

●1:7 しかし、神が光の中におられるように、私たちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。(聖書協会共同訳)

 こちらで見たように、USB5=ネストレ28版では「しかし de」の語が取れた。が、上記のように「聖書協会共同訳」は底本には従わなかった。写本証拠としては「しかし」ありの方が有力だからだろう。 訳注欄には、「「しかし」は「異」による補足」との記載がある。ちなみに「新改訳2017」は、「しかし」なし。

●3:7 子たちよ、誰にも惑わされないようにしなさい。義を行う者は、御子が正しいように正しい人です。(聖書協会共同訳)

 「子どもたちよ teknia」が、USB5=ネストレ28版で「幼い子どもたちよ paidia」という語に変わった。「聖書協会共同訳」の「子たちよ」は、「口語訳」「新共同訳」と同じで変わっていない。おそらく底本には従わなかった箇所の一つにあたるが、こちらについては訳注欄にも特に記載はない。ちなみに「新改訳2017」は、「幼な子たち、」を採用、底本を変えたことを明らかにしている。
※重要な訂正 2019年8月30日付けの「聖書協会共同訳」初版発行後に生じた変更・訂正で、1ヨハネ 3:7 の訳文が「子たちよ >> 子どもたちよ」へと変更になった。このことで、「聖書協会共同訳」の1ヨハネにおいて「paidia」の訳として使っている「子どもたちよ」と同じになった(2:14 2:18 を参照)。つまり、底本であるUSB5=ネストレ28版に従ったという判定になったということ。>>詳しくは、こちら

●5:10 神の御子を信じる者は、自分の内にこの証しを持っています。神を信じない人は、神を偽り者にしています。神が御子についてされた証しを信じないからです。(聖書協会共同訳)

 ネストレ26/27版の「彼自身に」という再帰代名詞が、USB5=ネストレ28版では同旧版に復し、「彼に」という代名詞に変更された。日本語訳では伝統的に「自分の内(うち)に」」という訳が使われてきていて、今回も大きな変更はない(「新改訳2017」も)。なので、どちらの読みを採用しているのかははっきりとはわからないが、下記「5:18」で使われた「自分」という訳が再帰代名詞の訳である可能性が高いことを考える合わせると、ここはUSB5=ネストレ28版の読みは採用しなかったか。ただし、こちらも訳注欄には異読の記載はない。

●5:18 神から生まれた人は誰も罪を犯さないことを、私たちは知っています。神から生まれた人は自分を守り、悪い者がその人に触れることはありません。(聖書協会共同訳)

 この箇所は、以前、津村春英氏が「聖書協会共同訳」の出版を控えて発表した「それでも新聖書翻訳」という小文(https://www.bible.or.jp/know/know31/h_02.html)で、本文改訂の必要性を指摘していた場所の一つである。

「3)ヨハネ一5:18(NA28で本文変更)/筆者がSOWER41号誌の聖書セミナーにおいて指摘したヨハネの手紙一5:18であるが、NA28では、「アウトン」(彼を)から、シナイ写本などを証拠とする「ヘアウトン」(自分自身を)に本文の変更がなされた。つまり、「神から生まれた者は自分自身を守り、それで悪しき者が彼に触れることはありません」というような訳になるであろう。」(津村春英氏)

 ここでは津村氏の指摘のように、従前の版の「彼を」という代名詞が、ネストレ28版では「彼自身を」という再帰代名詞に変わった。今回、出版された「聖書協会共同訳」では、「神から生まれた人は自分を守り、」と、上記「5:10」で使われている「自分」というやや微妙な訳になっている。ただし、訳注欄に「異本「神から生まれた方がその人を守ってくださり」」という注をつけていることから考えると、今回は底本に従い、再帰代名詞の読みを採用したと推測される。

 上記のように「聖書協会共同訳」の第1ヨハネでは、底本の扱いでは他書以上にばらつきがあるようだ。単なる推測だが、ここでは従来の本文批評の手法において、写本証拠が強いと判断されている方を概ね選んでいるように思われる。これはこれで一つの考え方ではあるが、訳注欄への記載が少なめであることはやはり気になる。今後、注解書などで判断基準の詳細を示してくれるとうれしいのだが。

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2018/12/17

『聖書協会共同訳』の公同書簡(その3)

 第2ペトロの続き、第3章から。

●3:5 こう言い張る者たちは、次のことを忘れています。すなわち、天は大昔から存在し、地は神の言葉によって、水を元として、また水によって成ったのですが、
3:6 当時の世界は、御言葉によって洪水に見舞われて滅んでしまいました。

 この箇所の本文確定および解釈の難しさについては、すでにこちらで触れた。ここで USB5=ネストレ28版は(赤字になっている部分を)「それ(hon)」という単数で受ける異読を採用している。これは前例にない処置だったが、「新改訳2017」はおそらくそれを訳し、「そのみことばのゆえに」としている。今回、「聖書協会共同訳」も「御言葉によって」と訳し、「異読」欄の方にUSB4以前の「それら(hōn)」を訳した「御言葉と水によって」を置いている。新共同訳の「水によって」も、前節に2度出てくる2つの「水(複数形)」を訳したと思われるので、今回、これを改めたと言える。ただ「それ」を同じ「(言葉)ことば」ととる両訳だが、関係代名詞が「それら(hōn)」なら「di' + 属格」なので「それらによって」と訳せるが、「それ(hon)」の場合は「di' + 対格」になるので「それのゆえに」の意味になるはず(「田川建三氏『新約聖書 訳と註6』参照)。なので、「聖書協会共同訳」の「御言葉によって」より、「新改訳2017」の「みことばのゆえに」の方が、原意に近いと言える。

●3:10 しかし、主の日は盗人のようにやって来ます。その日、天は激しい音を立てて消えうせ、自然界の諸要素は焼け崩れ、地とそこで造り出されたものも焼けてしまいます。

 ここも解釈が難しい箇所の一つ。「聖書協会共同訳」の「焼けてしまいます。」は、口語訳「みな焼きつくされるであろう。」とほぼ同じ。これは、ビザンチン型の異読「katakaēstai = 焼き尽くされるであろう」の訳ではないかと、僕はこちらで書いている。が、今回、「聖書協会共同訳」では、「別訳」欄において新共同訳と同じ「暴かれてしまいます」を置いている。「別訳」ということは、少なくともこの「暴かれてしまう」と「焼けてしまう」という訳が同じ原文から出ていることを示している。仮に「暴かれてしまう」という訳を、(地とそこで造り出されたものを)「見い出す>>白日の下にさらされる>>暴かれる」というように、「見い出されます(heurethēsetai)」を言い換えたものと解釈するなら、結果的に「地と地にあるすべての造作も(焼けて)しまうだろう。」というように、「見い出される」という語に「焼けて」を補って訳しているという田川建三氏の訳・解釈と同じということになる(この田川説は、上記記事で詳解した。僕自身はこの説はかなり苦しいと思うが・・・)。一方、USB5=ネストレ28版は、上記「見い出される」に否定の意味を持つ「ou / oux」が付いたことを受け、「見い出され/なくなる」との読みを採用する。が、これは証拠写本が非常に弱い(コプト語写本とシリア語写本の一部のみ)。なので、「聖書協会共同訳」ではあえて底本の読みを採用しなかったのだろう。他方、「新改訳2017」は、「なくなってしまいます。」とネストレ28版等の読みをそのまま訳していると思われる。

●3:16 すべての手紙と同じように、彼も、これらのことについて述べています。彼の手紙には分かりにくい所があって、無学な人や心の定まらない人は、それをほか書物と同じように曲解し、自分の滅びを招いています。

 ここで USB5=ネストレ28版では、2箇所の変更があった。まずUSB5=ネストレ28版では、「すべての/(定冠詞)/手紙」という形で定冠詞「tais」を入れる読みを採用したが、これは意味的に大きな違いがない。なので、新共同訳の「どの手紙」との差異がはっきりしない(逆に、USB5=ネストレ28版を採用しなかったとも言えない)。次に、「曲解する」という動詞の時制の変更。USB5=ネストレ28版では、従前の読みである現在形から、未来形に変更されている。それゆえ、「新改訳2017」では多分に意訳気味だが「極解して、・・・招きます」という先のことを言うような訳文になったと僕が想像した箇所である。>>こちらを参照。一方、「聖書協会共同訳」は「極解し、・・・招いています」と、新共同訳と同じ訳のままである。ECM やネストレ28版で従来の読みを更新した箇所の一つだが、上の3:10同様、新説は受け入れ難かったようで、この訳を「異」による=異読と明記したうえで、「ギ」=底本の読みを「招くことになります」としている。異読の評価は別にして、これは翻訳書として極めてフェアーな態度だ。

●3:18 私たちの主、救い主イエス・キリストの恵みと知識において成長しなさい。このイエス・キリストに、栄光が今もまた永遠にありますように

 この節、というかこの「第2ペトロ」の文末には、USB4=ネストレ26/27版では「アーメン。」の一語が[ ]付きで入っていた。「聖書協会共同訳」は、「新改訳2017」同様、USB5=ネストレ28版の読みを採用し「アーメン。」なし(ネストレ旧版に復した)。

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2018/12/16

『聖書協会共同訳』の公同書簡(その2)

 続けて、『聖書協会共同訳』の第1ペトロを読んでいく。

●4:16 しかし、キリスト者として苦しみを受けるのなら、恥じてはなりません。かえって、この名によって神を崇めなさい。(聖書協会共同訳)

 ここで「聖書協会共同訳」は、USB5=ネストレ28版の読み「このこと tō merei」を採用しなかった。と言っても、従前の諸訳も「この名 tō onomati」であり、これはこの読みを支持する写本の評価が高いことによる。>>詳しい解説は、こちら。ただし「新改訳2017」は、底本どおり「このことのゆえに」を採用していた。

●5:1 私は同じ長老の一人として、また、キリストの受難の証人、やがて現れる栄光にあずかる者として、あなたがたのうちの長老たちに勧めます。

 ここでは、USB5=ネストレ28版の読みの方を採用し、「そこで、あなたがたの」(口語訳)「さて、わたしは」(新共同訳)と訳されている接続詞「oun さて」でなく、定冠詞「tous」の本文を訳していると思われる。>>詳しい解説は、こちら。(聖書協会共同訳)

 次は、第2ペトロから。

●2:6 また、ソドムとゴモラの町を罰し、灰にして滅ぼし尽くし不敬虔な行いをしようとする者たちへの見せしめとされました。(聖書協会共同訳)

 ここでは「異読」欄に「不敬虔な者たちに今後起こることの」という訳を置いている。これは「新改訳2017」の「不敬虔な者たちに起こることの」という訳に近い。一方、本編の訳は、口語訳の「不信仰に走ろうとする人々の見せしめ」に近いこれらのことから考えても、今回の「聖書協会共同訳」の本文に採用されたのは、USB5=ネストレ28版(=ネストレ旧版)の読みではないか。おそらく「新共同訳」の「それから後の不信心な者たちへの」を更新した。※>>詳しい解説は、こちら。ちなみに「滅ぼし尽くし」という訳は「katastrophē」という語によると思われるが、これはネストレ26/27版では [ ]付きであった。ネストレ28版序文に記載された「27版とのテキスト差異」欄にも記載がないが、ここもネストレ28版が旧版に復した箇所にあたる。

●2:11 御使いたちは勢いも力も彼らにまさっているのに、主の御前で彼らをそしって訴えたりしません。(聖書協会共同訳)

 ここは、「新改訳2017」同様、「主の御前で」という USB5=ネストレ28版の読みを採用。元々、ネストレ旧版も「主の御前で」だったが、USB3=ネストレ26/27版は「主のもとから」という読みを採用。ただし、これを底本に持つ「新共同訳」は「主の御前で」のままであった。>>詳しい解説は、こちら。ちなみに日本語訳して読む限りは、「主の前で訴える」という方が「主のもとから訴える」というより素直だろう。「主のもとから」を採用している訳がないか探してみたら、ネストレ27版を底本にしている「岩波訳」(小林稔・訳)があった。「御使いたちは力に関しても、〔彼ら〕より〔も〕大いなるものであるのに、主のもとから彼らの冒瀆〔に対する〕さばきをもたらすことはしないでいる。」。ギリシャ語原文を直訳すると、この小林の訳のように「さばきを」「もたらす pherousin」となる。その場合、田川氏も指摘しているように、「主のもとから裁きをもたらす」という文も成り立つわけである(「田川建三氏『新約聖書 訳と註6』)。

●2:15 彼らはまっすぐな道を離れてさまよい、ボソルの子バラムの道に従いました。バラムは不義の儲けを愛し、
2:16 その過ちに対するとがめを受けました。ものを言わないろばが人間の声でものを言い、この預言者の常軌を逸した行いを阻んだのです。(聖書協会共同訳)

 ここは非常に微妙な箇所。「新改訳2017」においては、「彼らは正しい道を捨てて、さまよっています。」とし、「捨てて」という動詞の後ろに付けた「、」によって、USB5=ネストレ28版の読み(アオリスト過去)を採用したと僕が想像した箇所。「、」の有無どちらでもそう大きな意味の違いはないだろうが、「聖書協会共同訳」では「新共同訳」と同様「正しい道から離れてさまよい歩き」と「、」なしのままであった。>>詳しい解説は、こちら

●2:18 彼らは、むなしいことを大げさに語り、迷いの中に生きている人々の間から現に逃げ出しつつある人たちを、肉欲と好色によって誘惑しています。(聖書協会共同訳)

 ここは「新改訳2017」同様、「現に(本当に)」というUSB5=ネストレ28版の読みを採用。「新共同訳」の「やっと抜け出て来た」を更新した。>>詳しい解説は、こちら

●2:20 私たちの主、救い主イエス・キリストを深く知って世の汚れから逃れても、再びそれに巻き込まれて打ち負かされるなら、その人たちの後の状態は前よりも悪くなります。(聖書協会共同訳)

 「新改訳2017」においては、「主であり、救い主であるイエス・キリスト」と「私たちの hēmōn」なしであるUSB5=ネストレ28版の読みを採用していた箇所。一方、「聖書協会共同訳」では底本に反し、「新共同訳」と同じ「私たちの hēmōn」付きの本文を選んだと言える。>>詳しい解説は、こちら

※一点、「者たちへの」の「への」の部分が、「~に対する」という与格の意味にとれる点が気にならないでもない。そうなればネストレ26/27版の訳ということになるが、構文的にはUSB5=ネストレ28版に近い。「hypodeigma」を「見せしめ」と訳したため、日本語的に「への」となったのではと想像される。「実例」=「example」と訳し、「不敬虔な行いをしようとする者たちの実例」とすれば原文に近いし、日本語的にもおかしくないのではないだろうか。

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2018/12/14

『聖書協会共同訳』の公同書簡(その1)

 昨日、書店から『聖書 聖書協会共同訳 旧約聖書続編付き 引照・注付き』(日本聖書協会・刊)が届いた。本文は二段組。脚注として引照や訳注がつくのは『新改訳2017』と同じだが、上記脚注も二段になっている。すっきりしているのは「新改訳」の方だが、「聖書協会共同訳」はその分、訳注等は多めのように見える。無論これは歓迎できることだが、「新改訳」の欄外注は一つひとつに章節番号が付いているのに対し、「聖書協会共同訳」は「a b c・・・」表記。その文字は、本文中にごくごく小さなポイントで記されていて、訳注から当該箇所を探し出すには結構、骨が折れる。訳注の「異読」「別訳」等の記述から章句を引くなどということは、僕のような者しかしない、と言われれば、そうかもしれないのだが・・・。

 ということで、気を取り直して(笑)、公同書簡の異同箇所を見て行こう。まずは、ヤコブ書から。

●1:20 人の怒りは神の義を実現しないからです。(聖書協会共同訳)

 こちらは「新改訳」について書いた記事ではあえて触れなかったが、実はネストレ26/27版から28版に変わるときに改訂があった箇所。前者では、神の義を「行わない(働かない) ouk ergazetai」としているのに対し、後者は、神の義を「実現しない ou katergazetai」に変更された。実は、「新改訳2017」も「実現しないのです。」との訳。ならばネストレ28版どおりと言いたいところだが、「ouk ergazetai」とのギリシャ語本文を訳していると思われる「新改訳旧版」も「実現するものではありません。」となっていた(なので、訳の変更があったかどうかがわからない)。実は、口語訳も「全うするものではないからである。」との訳であり、これについて田川建三氏などは「しかし原文にはどこにも「全うする」などという動詞は用いられていない。「行なう」と「全うする」ではまるで意味が違う。「全うする」となったら、それにかかわるすべてを尽くすのでなければならない。まさかね。そんな、嘘みたいにおこがましい。人間が「神の義」のすべてを尽くすことなぞ、できるわけがないではないか。口語訳は非常に多くの場合不必要に強調しすぎる欠点があるが、ここではそれが露骨に珍訳を生みだしてしまった。新共同訳の「実現する」、岩波訳の「成し遂げる」も原文を訳したというよりは口語訳を言い換えただけ。あんたら、どうしてそこまで思い上がることができるのだ。(『新約聖書 訳と註6』)」という解説を付けていた。口語訳等の訳者が思い上がってそういう訳を付けたかどうかは知らないが、田川氏はここではネストレ28版が採用した「実現しない ou katergazetai」という異読の有無については沈黙している。なぜか? 話を「聖書協会共同訳」に戻そう。上記のように今回は「実現しないからです。」と訳していて、訳注の「異読」の方に「なさない」を置いている。この「なさない」は、おそらく「ouk ergazetai」の訳。なので、今回の「実現しない」こそは、USB5=ネストレ28版の「ou katergazetai」の訳だということが言えるだろう。

●1:21 それゆえ、あらゆる汚れや甚だしい悪を捨て去り、植え付けられた御言葉を謙虚に受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。(聖書協会共同訳)

 ここは「新改訳2017」(あるいは「口語訳」「新改訳旧版」)同様、USB5=ネストレ28版で示された読みを採用。「素直に(謙虚に)」を「捨て去り」にかける「新共同訳」の読みを更新した。>>詳しい解説は、こちら

●ヤコブ書2:3節 きらびやかな服を着た人に目を留めて、「どうぞ、あなたはこちらにお座りください」と言い、貧しい人には、「あなたは、立っているか、そちらで私の足元に座るかしていなさい」と言うなら、
2:4 あなたがたは、自分たちの中で差別をし、悪い考えに基づいて裁く者となったのではありませんか。(聖書協会共同訳)

 この箇所も「新改訳2017」同様、USB5=ネストレ28版の読みを採用。「新共同訳」の「そこに立っているか、」を更新した。ちなみに、ネストレ旧版による口語訳も「そこに立っていなさい。それとも、」であったので、この読みは新しく響く。>>詳しい解説は、こちら。ただし、4節冒頭に加わった「kai」は訳出されていない。

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2018/12/09

『新改訳2017』の公同書簡(その6)

 補遺編の続き。

●1ヨハネ5:10 神の御子を信じる者は、このあかしを自分の心の中に持っています。神を信じない者は、神を偽り者とするのです。神が御子についてあかしされたことを信じないからです。 (聖書 新改訳 c1970,1978,2003 新日本聖書刊行会)
●5:10 神の御子を信じる者は、その証しを自分のうちに持っています。神を信じない者は、神を偽り者としています。神が御子について証しされた証言を信じていないからです。(聖書 新改訳2017 c2017 新日本聖書刊行会)

 ネストレ26/27版の「中に/彼自身に」(原文順)という再帰代名詞が、ネストレ28版では「中に/彼に」という代名詞に変わった(ネストレ旧版に戻ったと言うべきか)。この箇所は、新共同訳や岩隈訳は「自分の内に」、田川訳「自分の中に」と、あまり諸訳に差がない。「自分の」という日本語訳には多分に「自身の」という再帰代名詞的な意味が含まれる。なので訳文だけでは判断がつきにくいところ。あるいは、原文が上記のどちらであっても、「自分」と訳している場合が多いと言えるか。※1

●1ヨハネ5:18 神によって生まれた者はだれも罪を犯さないことを、私たちは知っています。神から生まれた方が彼を守っていてくださるので、悪い者は彼に触れることができないのです。(聖書 新改訳 c1970,1978,2003 新日本聖書刊行会)
●5:18 神から生まれた者はみな罪を犯さないこと、神から生まれた方がその人を守っておられ、悪い者はその人に触れることができないことを、私たちは知っています。(聖書 新改訳2017 c2017 新日本聖書刊行会)

 この箇所の本文変更については、『聖書協会共同訳』について書いた記事(>こちら)でも触れている。ここでは従前の版の「彼を」という代名詞が、ネストレ28版では「彼自身を」という再帰代名詞に変わった。新改訳2017年版は「彼を」を「その人を」という読みに変更しているが、これは新共同訳と同じ訳語。ネストレ28版の再帰代名詞をそう訳したかまでは不明だが、「異本「神から生まれた者は自分自身を守り」」という注をつけていることからすると、再帰代名詞の読みは採用しなかったのだろう。※2

●2ヨハネ(1:)5 そこで夫人よ。お願いしたいことがあります。それは私が新しい命令を書くのではなく、初めから私たちが持っていたものなのですが、私たちが互いに愛し合うということです。(聖書 新改訳 c1970,1978,2003 新日本聖書刊行会)
●(1:)5 そこで婦人よ、今あなたにお願いします。それは、新しい命令としてあなたに書くのではなく、私たちが初めから持っていた命令です。私たちは互いに愛し合いましょう。(聖書 新改訳2017 c2017 新日本聖書刊行会)

 ギリシャ語原文の語順は、ネストレ26/27版が「命令/新しい/私が書いている/あなたに」。ネストレ28版は「命令/私が書いている/あなたに/新しい」と、ネストレ旧版に戻された。「新しい」と胃う語の位置が問題になるわけだが、「後に置いて強調されている.」(岩隈直訳註『希和対訳脚注つき 新約聖書 12B 公同書簡 下』 )という考え方もあるようだ。いずれにせよ新旧新改訳の訳文では、目立った違いは見られない。

 以上、「新改訳2017」の公同書簡の訳におけるネストレ28版の影響を見てきた。「意外に」と言っては失礼かもしれないが・・・新しい読み・語釈を取り入れたプロジェクトになっているのではないだろうか。来週出る「聖書協会共同訳」ではどうだろう。

※1(2018/12/20の追記) 「聖書協会共同訳」でも「自分の内に」を採用していた。ただしこの新訳では、「自分」という訳を再帰代名詞の読みで使っている可能性がある。>>詳しくは、こちら
※2 ちなみに、この節にでてくる「神から生まれた者」「神から生まれた方」「彼」「彼自身」という訳語が具体的に誰を指すかということが、逆な意味で本文決定にも関わってくる。「我々」「イエス・キリスト」「キリスト教徒」などそれぞれの解釈があるようだが、今回は説明を省いた。岩隈直氏の上記『希和対訳脚注つき 新約聖書』や、田川建三氏の「訳と註」に詳しい。

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2018/12/08

『新改訳2017』の公同書簡(その5)

 夏前から『新改訳2017』において新版の異同を考慮したと思われる翻訳箇所を追ってきた。来週出る予定のネストレ28/USB5 を底本とした『聖書協会共同訳』ではどうなっているかを確認するためにも、いくつか補遺的に触れておきたい。

◯ヤコブ書1:21 ですから、すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植えつけられたみことばを、すなおに受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。(聖書 新改訳 c1970,1978,2003 新日本聖書刊行会)
●1:21 ですから、すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植えつけられたみことばを素直に受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。(聖書 新改訳2017 c2017 新日本聖書刊行会)

 この箇所は、ネストレ28/USB5 のいわゆる変更リストには上がっていないが、原文のコンマの位置が問題になる箇所。「prautēti 素直に(穏やかに)」という語の後ろにコンマを入れると、それ以前の部分にある1)「捨て去り(除いて)」という語にかかることになる。ネストレ26/27版がこれを採用している。一方、コンマがないと、2)「受け入れ」という語にかかる可能性が出てくる。ネストレ25以前はそうだったので既存の訳でも、

○口語訳1:21 だから、すべての汚れや、はなはだしい悪を捨て去って、心に植えつけられている御言を、すなおに受け入れなさい。御言には、あなたがたのたましいを救う力がある。

としているものもある。逆に、ネストレ27版を定本にする「新共同訳」は、

○新共同訳1:21 だから、あらゆる汚れやあふれるほどの悪を素直に捨て去り、心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい。この御言葉は、あなたがたの魂を救うことができます。

となっている。ちなみに、ネストレ28版はコンマをとっているので、ネストレ25以前同様どちらでもとれるということになる。ネストレ24版による新改訳旧版が1)なのは当然としても、新改訳2017でも1)となっているのは28版の判断に従った、少なくともネストレ26/27の読みは採用しなかった、ということができるだろう。その証拠に、2017版の欄外の注には、「別訳 「素直に」を「捨て去る」にかける」とある。(※1)

◯第2ペトロ2:6 また、ソドムとゴモラの町を破滅に定めて灰にし、以後の不敬虔な者へのみせしめとされました。(聖書 新改訳 c1970,1978,2003 新日本聖書刊行会)
●2:6 また、ソドムとゴモラの町を破滅に定めて灰にし、不敬虔な者たちに起こることの実例とされました。(聖書 新改訳2017 c2017 新日本聖書刊行会)

 ここは原文の解釈も、日本語訳の解釈も、それぞれ難しい。「不敬虔」と訳されている語の品詞が、1)形容詞(の名詞化したもの)「asebesin 不敬虔な(人々)」と、2)動詞(の不定詞)「asebein 不敬虔を行う」という2つの読みがある。ネストレ26/27版は前者1)を [  ] 付きで採用しているので、保留付きながら「実例/将来の(属格)/不敬虔な人々に対する(与格)」(原文順)という意味になる。新共同訳はこれに近い。

○新共同訳2:6 また、ソドムとゴモラの町を灰にし、滅ぼし尽くして罰し、それから後の不信心な者たちへの見せしめとなさいました。

 これに対し、ネストレ旧版は2)の読みなので、「実例/将来するであろう人々の(属格)/不敬虔を行う」という意味になる。例えば、口語訳はこちらに近い。

○口語訳2:6 また、ソドムとゴモラの町々を灰に帰せしめて破滅に処し、不信仰に走ろうとする人々の見せしめとし、 

 新改訳旧版もこの口語訳と同じようにネストレ旧版を底本に持っているのだが、ここでは底本に従わず意味的に通りやすいネストレ26/27版と同じ読みを採用していたのではないだろうか。さらにややこしいことに、ネストレ28版は、旧版の読みに復している。これを底本にした新改訳2017では、「不敬虔な者たちに起こることの実例」と訳しているが、これは日本語として微妙だが、2)を訳したものには見えない。欄外の脚注に、「不敬虔になろうとしている者たちの」という「異本」の訳を示していて、こちらの訳の方が2)に近いようだ。この点だけから言えば、ネストレ28版には従わなかったことになるのだが。

◯第2ペトロ2:11 それに比べると、御使いたちは、勢いにも力にもまさっているにもかかわらず、主の御前に彼らをそしって訴えることはしません。(聖書 新改訳 c1970,1978,2003 新日本聖書刊行会)
●2:11 御使いたちは勢いも力も彼らにまさっているのに、主の御前で彼らをそしって訴えたりしません。(聖書 新改訳2017 c2017 新日本聖書刊行会)

 ネストレ26/27版の読みは、「もと(元)」「傍ら」という意味の前置詞「para」に、属格の「主」がついていた。「その場合は天使たちの裁きの出所が神であることを示す(岩隈直氏『希和対訳つき  新約聖書 12B』)」ので「主のもとから」「主から」というような意味になる。これに対し与格の「主」を採用し、「主のもとで(田川建三氏『新約聖書 訳と註6』)」「主の前で(岩隈直氏前掲書)」とするのが、ネストレ28版である。新改訳第3版の「主の御前に」とはかなり微妙な差で、こちらも元々、ネストレ旧版どおり与格のつもりだったと思われるが、新改訳2017では「主の御前で」とはっきりネストレ28版を踏まえた訳をしている。後者は、ビザンティン系写本に多い読み。上記、田川氏は、ネストレ26/27版が前25版から「主のもとから」という読みに変えたことについて、「一つには基本的にビザンチン系を忌避しすぎる彼らの傾向のせいだろう。」とし、珍しく「ここは二八版が旧版に回帰したのは正しい。」と書いている。(※2)

◯第2ペトロ2:20 であり救い主であるイエス・キリストを知ることによって世の汚れからのがれ、その後再びそれに巻き込まれて征服されるなら、そのような人たちの終わりの状態は、初めの状態よりももっと悪いものとなります。
●2:20 であり、救い主であるイエス・キリストを知ることによって世の汚れから逃れたのに、再びそれに巻き込まれて打ち負かされるなら、そのような人たちの終わりの状態は、初めの状態よりももっと悪くなります。(聖書 新改訳2017 c2017 新日本聖書刊行会)

 ここは新旧新改訳には大きな差異はないが、ギリシャ語原文では1)「Kyriou 主」という語のあとに「hēmōn 私たちの」という修飾が [  ] 付きで続いている写本がある。ネストレ26/27版がこれを採用しているので、新共同訳はこうなっている。

○新共同訳2:20 わたしたちの主、救い主イエス・キリストを深く知って世の汚れから逃れても、それに再び巻き込まれて打ち負かされるなら、そのような者たちの後の状態は、前よりずっと悪くなります。

 一方、2)ネストレ24版による新改訳旧版は「わたしたちの」なし。ちなみにECM1 では、2)の読みに同様の価値があるとの注記付きで、1)を initial text として掲載( [ ] はなし )。ECM2 では、2)に変更、 hēmōn 自体を initial text から削除した。ネストレ28版もこれを採用したので、新改訳2017も同じく「わたしたちの」なしになったと思われる。

(※1)ちなみに、ギリシャ語聖書の写本には、カンマはない(というより、語と語とのあいだの区切りもない!)。
(※2)田川氏は、「二六、七版が「主のもとから」という読みを採用したのは、多分、比較的最近発見されたパピルス写本(P72は一九五九年にはじめて公表された)を知っているところを見せたかったのだろうが(どの学問の世界でも時々この種の新しいもの好き知ったかぶりが顔を出す)」という説も同時に披瀝している。

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