2006/11/28

版の問題

 田川氏の『書物としての新約聖書』の第3章「新約聖書の写本」について、ぽつぽつと書いている。この第3章は、第4章「新約聖書の翻訳」とかに較べてもはっきり地味な分野だし、まあ僕の発言を読んでひとりでもふたりでも田川氏の本を意識的に再読していただければ本望、といったくらいの気持ちでこれからも時々思い出したように書いていこうと思う。

 今回は田川氏の本に引用される洋書、例えば UBS や A Textual Commentary on the Greek New Testament 等の版の問題についてだが、どうやら田川氏はこの種の洋書を読むときその本の最新版が出ても買い直さない主義らしいので (^^)、これから自分で最新版を読む(とか買うとかいう)読者にとっては、いろいろややこしい点もあるようだ。例えば、p.412にはこのコメンタリーについて

「(B.M.Metzger, A Textual Commentary on the Greek New Testament,3rd ed.,1971。これももっと新しい版が出ているはずである)。」

との注記がある。ここでいう「新しい版」というのは、1994年に出た第2版をさしている(上記の田川氏の引用で、「3rd ed.」とあるのは、親本が「 the Greek New Testament 」= USB の3版という意味でこう記したつもりだろう。1971年に出たのは、コメンタリーの初版= 1st ed. である)。さらに読んでいけば、次のページ(p.413)には、マルコ1.41の個所の異読について触れられている箇所がある。UBS やコメンタリーの場合、挙げられた異読のそれぞれについて、本文に採用した読みの「確かさの度合い=A~D」が示されているのが特徴だ(ネストレにはない)。このマルコ1.41の個所では、確かさの「等級はDに分類されている」と田川氏は書いている。ちなみにこれは、UBS3 およびそれに準拠したコメンタリー第1版の当該個所の確かさであり、実は UBS4 とコメンタリーの第2版では、マルコ1.41の異読の判定は等級Bに変更されているから、ちょっと注意が必要なところ。田川氏は、他の個所(p.472)では UBS4 について触れているので、こちらはどうやら買い直したようだ。でも、p.414でももう一度「1.41をDにしたなら」と書いているので、ここは明らかに何か理由があって UBS3 の方を引用している。どうしてだかは、僕にはわからないけれど。
 
 さらに、例えばこんなところ。p.424のシナイ写本の解説では、同写本の修正の段階を表した記号が、ネストレ(* 1 2 c)と「UBS」(* a b c)とでは違っているとし、「同じ編集者たちの仕事なんだから、統一してくれればいいのに面倒な。」っていう悪口を書いている個所があって、これは UBS4 ではすでに同じ表記(* 1 2 c)になっている。それならそれでちゃんと「旧版の UBS3 について言ってる」って書けばすむのに・・・と思うのは僕だけだろうか。(以下、この件に関しては次回に)

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2006/08/24

『NT Greek Manuscripts』

 ちなみに、nomina sacra =ノミナ・サクラによる特定の文字の縮め方については、先の発言でも少し触れたように、写本(やその成立時代)によっていろいろなバリエーションがあるようだ。

 マルコ1:1の「イエス」「キリスト」「子」「神(の)」(ギリシア語では、この順番になる)の語について言えば、

1) 小文字写本28のオリジナルが、「イエス」 > 「ιυ」

2) コリディティΘ及びシナイオリジナル、28の修正版が、「イエス」「キリスト」 > 「ΙΥ ΧΥ 」 または、「ιυ χυ」

3) シナイcやレーギウスLは、「イエス」「キリスト」「子」「神」 > 「ΙΥ ΧΥ ΥΥ ΘΥ」

 この4連続の nomina sacra は、なかなか壮観でさえある。そのバリエーションとしては、「神」の語の前に定冠詞がついた例がかなりある。

4) アレキサンドリアA、多数派本文 Majority text、カンピヌアスMなど > 「ΙΥ ΧΥ ΥΥ ΤΟΥ ΘΥ」

 これらは上記の4語をすべて縮約した例(実際には、縮約形の上に、横線入り)である。しかし、もちろんそうではない写本もある。多い例として

5) バチカンBやベザD、ワシントンWなどは、「イエス」「キリスト」「神」は縮めていて、「子」だけはもとのまま > 「ΙΥ ΧΥ ΥΙΟΥ ΘΥ」

  ちなみに、以前に紹介した Dr. Wieland Willker さんのサイトに、バチカン写本の冒頭ページの写真を集めたページがある。そこにマルコの冒頭部分も掲載されている。

http://www-user.uni-bremen.de/~wie/Vaticanus/titles.html

 これを見ると、上記 nomina sacra の状態がよくわかると思う(ページの一番上に、マタイとマルコの冒頭画像が並んでいる。右側がマルコで、その緑色のバーに続く、本文2行目冒頭から10文字がそれにあたる)。さらに細かい点だが、ベザDの場合は、「イエス」」「キリスト」の縮約形は > 「ΙΗΥ ΧΡΥ 」になっているらしい!

6) さらに多い例は、5)の例の「神」の語の前に定冠詞がついた例で、キプリウスK、家族1 f1、家族13 f13、小文字写本565など > 「ΙΥ ΧΥ ΥΙΟΥ ΤΟΥ ΘΥ」 または、「ιυ χυ υιου του θυ」

7) 小文字写本69は、かなり変わってて、「キリスト」と「神」は縮めていて、「イエス」「子」はもとのまま > 「ιησου χυ υιου του θυ」

 カイサリア型と言われている69だが、「この写本では、ヨハネ21:15までは常に ιησουs と省略しない形が用いられ、ヨハネ21:15で ιs が初めて現われるが、その後も、使徒行伝の19箇所を含む41箇所で ιησουs と記されている」らしい(メツガー氏『図説ギリシア語聖書の写本』)。

 以上、本文自体の違いのほかに nomina sacra の違いが加わって、たった1節とはいえども相当な量のバリエーションが生じていることがわかる。自分でもこれを書いていて、かなり混乱したくらいだから、古代の写字生もさぞ大変だったろう(笑)

 ちなみに、こうした nomina sacra の縮約形の情報は、何度も言うがネストレにはない。また、レッグ氏によるマルコ・マタイの大型資料版、ルカの新しい大型資料版にもない。それを知るには、各写本のファクシミリにあたるのが一番だが、これは一部を除いて一般には手に入りにくく、現実的には銀座の聖書図書館にでも行って閲覧するしかないだろう(例え、ファクシミリを見ても、すべての箇所について調べるなどということは、時間的にもできない相談だろう)。

 では、どうやって上記のような情報を手に入れたかというと、その秘密は『 New Testament Greek Manuscripts 』( Reuben Swanson,ed. Sheffield Academic Press, 1995 )という本にある。この本(シリーズ)は、バチカン写本を一番上の行に印刷し、他の写本がこれと異なる読みを示すとき、その本文を下に下線付きで並べて表示するインターライナーというシステムを採用。ギリシア語の一文字毎の異読の有無、各写本間の一致具合等が、一目で把握できるように工夫されている。内容の濃さの割には、5,000円前後の安い本なので、最初、銀座の教文館で見つけたときには、「これ、ちゃんとした学問的な本かいな」と思ったりした。でも、「大御所メツガー氏が序文書いてるし、まいっか」っていう感じで買ってしまったけど、これが大正解!自慢のビジュアル表示の異読のほかに、本文の欠損部分、正字法(単語の綴り)の違い、そして上記 nomina sacra、各写本の章の区分(ケパライア=マイヨーラ)や標題(ティトゥロイ)、聖書日課のはじめと終わり、エウセビオスのカノン表まで各種写本情報が満載で、まさにすばらしい出来だと思う。というかこの本のほかに、手軽にこの種の情報を得ることのできる本は存在しないだろう、多分。

※このシリーズは、Mt, Mk, Lk, Jn, Acts, Gal, Rom, 1.Co が出ているようだが、教文館の洋書担当の方の話によれば、出版社の Sheffield Academic Press はすでに大手の会社に吸収されてしまったらしく、入手困難とのこと。ただし、amazon からは新品も含めまだ検索・購入できるようなので、ぜひ手に入れてほしい。

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2006/08/23

nomina sacra

 引き続き、話題は『書物としての新約聖書』のマルコ1.1「[神の子]イエス・キリストの福音のはじめ」に触れた箇所について・・・ただし、ここからは「正文批判の実例」の話になる。まず著者・田川氏の主張を見てみよう。

 「ではもしも『神の子』が原本にあったと仮定して、その場合に一部の写本が何故それを削除したのか。この難問にメッツガーはどういう答を出しているか。むろん意図的に「神の子」を削除することなどありえないとすれば、無意識の過失以外に考えられない。そこでメッツガーが考えついたのが、ここは語尾が同じ単語がいくつも並ぶから、こんがらがって、最後の二つの単語を見逃したのだろう、という理屈である。」(p.477)

 「おまけにこれは『イエス・キリスト』とか『神の子』とか、キリスト教にとって最重要の単語である。(中略)それを、綴りがほとんど同じというならともかく、語尾だけ同じだから不注意で見落とす、などと・・・・。見て来たような嘘もいい加減にしろ、といったところ。」( p.478)

 そして田川氏は「嘘」といいながらも、ご丁寧にもマルコの書き出しの部分のギリシャ語の綴りを、「ΑΡΧΗΤΟΥ・・・ΥΙΟΥΘΕΟΥ」とギリシャ語の大文字でいちいち引用し、

「二番目の単語以降六つの単語がすべてΟΥという語尾で終わっている。このように同じような単語が続くから、ある写本家が不注意にも、最後の二単語(神の子)を見落としたのだ、というのである。」(p.477)

というようにメツガー氏の説を紹介し、以後も1ページ強にわたって氏への執拗な悪口を並べている。

 しかし、ここで使われている「イエス」「キリスト」「子」「神」という単語は、(もっぱらネストレ等で新約聖書を読んでる場合にはわからないことだが)当時の写本では nomina sacra =ノミナ・サクラ(「聖なる言葉」の意)という慣習に従い、短く縮めて筆写していることが極めて多い言葉だ。多くの場合、田川氏の引用のようには書かれておらず、

ΙΥ ΧΥ ΥΥ ΘΥ
 (「イエス」「キリスト」「子」「神」 のそれぞれ縮約形。実際には、nomina sacra であることを示す上線が付く) 

という感じで表記されている(もちろん短縮の仕方には、いろいろあるのだけど)。だからちょっと本文批評をかじった者でも、「同じような単語が続く」「活用語尾だけ同じ」(p.477)とか言えるような箇所ではなく、ましてやメツガーともあろう専門家がこんな素人学者のようなことを書くはずない、とすぐわかる個所だろう。当然のことながら、メツガー氏の「The Textual Commentary on the Greek New Testament(2nd.ed.)」にあたれば、やっぱりこれは田川氏の「見てきたような嘘」だとすぐわかる。この本の記述によれば、メツガー氏は「 nomina sacra の endings の類似」により起こった筆記者の見落としで生じただろう、と書いているだけ(p.62)。やれやれ。

 nomina sacra 程度のことをいかに新約学者であっても知らないわけもなく、ましてやこれは『書物としての・・・』にも紹介されているメツガー氏の『新約聖書の本文研究』あるいは『ギリシア語聖書の写本』(教文館)を読めば、ちゃんと書いてあることである(田川氏は、原語でお読みになったそうだ)。にもかかわらず、ありもしないような表記法で聖書を引用までした上で、他人の説をわざわざ数ページにわたって間違っているように紹介するのは、我々素人相手とはいえちょっとやり過ぎだろう。田川氏がそう思うのは勝手だが、少なくとも、「六つの単語がすべてΟΥという語尾で終わっている」などとメツガー氏が書いているようには紹介しないで欲しいところだ(もしかして、これは、ディアトリベー?)

 この種の本としては珍しく「第三章・新約聖書の写本」という一章を設けて、聖書の正文批判、写本とその本文型、聖書の正文批判などについて詳しく取り上げている(100ページ強も!)。その意味では非常に貴重な本だけに、いかにも惜しい。

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2006/08/21

レッグ氏の「大型資料版」

 マルコ1:1の異文資料に関する雑感の続き。

 では、ネストレやUBS以外に、エイレナイオスやエピファニオスといった教父引用の証拠を示した批評資料欄を持つ本はないだろうか、ということで、最近、次の本を手に入れた。

□Novum Testamentum Graece secundum Textum Westcotto-Hortianum. Evangelium secundum Marcum Oxford: The Clarendon Press, 1935

 これは、ルカの大型資料版について書いたときにも触れた、S.C.E.レッグ氏が1935年にオックスフォードから出版した古典的な集註版である。タイトルからもわかるように、ウェストコット=ホルトの本文を基準として、写本や初期の翻訳、教父の引用から膨大な異読を集めている。今では、なかなかお目にかかることもないだろうから、そのマルコの冒頭部分を示そう。

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 レッグ氏の本の場合、教父による聖書本文の引用が、ギリシャ語およびラテン語でその前後部分も含めて示されており、文字とおり有難い(これは、ルカ=新版よりずっと見やすい表示だ)。早速、「神の子イエス・キリスト」の有無を見てみると、

1) エイレナイオス・ギリシア語 「イエス・キリスト」
2) エイレナイオス・ラテン語1 「なし」
3) エイレナイオス・ラテン語2 「神の子イエス・キリスト」
4) エイレナイオス・ラテン語3 「神の子イエス・キリスト」

5) オリゲネス・ギリシア語1 「イエス・キリスト」
6) オリゲネス・ギリシア語2 「イエス・キリスト」
7) オリゲネス・ラテン語 「イエス・キリスト」

8) エピファニオス・ギリシア語 「なし」

という結果になった。つまり、

長い読み「神の子イエス・キリスト」 エイレナイオス lat2/3
短い読み「イエス・キリスト」 エイレナイオス gr  オリゲネス gr, lat
なし   エイレナイオス lat1/3 エピファニオス gr

となり、UBS4との違いは、エイレナイオス gr が「なし」から「短い読み」になっている点だけである。

 このレッグ氏の大型資料版は、なにしろ戦前の編集であるし、「証拠の提示の仕方が不完全で、ところどころ誤りもあると批判されている」(メツガー『新約聖書の本文研究』)らしい。というより、引用元のエイレナイオス等の本文自体の校訂が正しいことが前提なので、これを決め手には使えそうにない。だから最終的には各教父の著作、しかも原典の批判的校訂版にあたるしかないだろうけど、ここでも田川氏の言うようにマルコ1:1のエイレナイオス引用において、「キリスト」の語も省略されて「イエス」のみという証拠文書は、残念ながら見当たらなかった。

 ちなみにこの本でも 28のみは、「om. キリスト」とされている。また、「短い読み」の証拠写本として、255 と 1555がクレジットされていることも付記しておく(ところで、田川氏は、この本見てるのかしら・・・)。

※余談だけど、この本、amazon のUSAのサイトで見つけて、マタイの巻といっしょに購入した used 本。2冊で1万円を切っているから、安かった方だろう(日本の古書店リストで、マルコだけで2万円近くしていたのを見かけたことがある)。ただ、なぜかボストン大学の神学校の図書館蔵書印が押してある(なぜ!?)。おそらく、この日本の片田舎にたどり着く前には、たくさんの学者さんや学生さんが手にした本だろうし、そう思って眺めるとあちこちに見られる書き込みなどにも愛着が感じられて、ページをめくっているだけでなかなか感慨深いものがあります。

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マルコ1:1の異読

 前々回に触れた、マルコ1:1「[神の子]イエス・キリストの福音の始め」の異読について補足。

 田川氏の『書物としての新約聖書』によれば、このマルコの書き出しについて、ネストレとUBSでは、異読情報に齟齬があるという。曰く、ネストレ27版は<エレナイオス(とエピファニオス)は「神の子イエス・キリスト」が全部欠けている、とされている>。これに対し、氏のいわゆるアメリカ版(田川氏以外の人はUBS版ないしはGNT版と呼ぶ)では、<エイレナイオスは「神の子キリスト」が欠け、単に「イエス」とのみ記している、という>とされ、しかも「ここはアメリカ版の方が正しい」と言い切っている(p.472)。

 ただ僕が持っているUBS版(第4版)には、このマルコ1.1については、こんなふうに記号が入ってる(画像参照)。

Χριστου υιου θεου シナイ1 B D L W 2427 //(中略)// Χριστου (中略)シナイ Θ 28c (中略) // omit 28(Irenaeus gr,lat1/3  Epihnius omit also Ιησου)

Photo 

 

 この記号の最後のセクションは、

小文字写本28のオリジナル(訂正前の本)は「キリスト 神の子」が全部欠けており、エイレナイオスのギリシャ語原典と、ラテン語版の3個所の記述の内の1個所、エピファニオスは、「キリスト 神の子」に加えて「イエス」の語もまた(=also )omit=オミットされている。

と読むべきではないだろうか?とすれば、エレナイオスとエピファニオスは「神の子イエス・キリスト」が全部欠けており、「神の子キリスト」が欠け単に「イエス」とのみ書かれているのは、むしろ28の方ということになる(この28が「イエス」だけという点については、僕が参照した他の複数資料でも一致した見解だ)。では、ネストレ27の記号も見ておこう。

¶1,1-3 「†-シナイ Θ 28. L2211 pc sams, Or : -(et om. I. Xp.) Ir Epiph :(後略)
 ※聖書日課=レクショナリーのエルは1と似ているため大文字にした

 ここでは、「et om(加えてオミット) I. Xp.(「イエス・キリスト」の語も)」となっているので、田川氏の記号の読みどおりだ。となると、先の指摘とは逆にUBS4とネストレ27とは、見解が一致しているということになる(もし田川氏が、同じUBS4を見て書いていると仮定したら、この異読記号を「エイレナイオスとエピファニオスもまた、「キリスト」の語をオミットして、「イエス」の語だけだ」という意味に読むという主張だろうか)。

 氏は、ネストレとUBS以外に何の資料を参照しているか明示していないが、小文字写本の1555が「短い読み」であることにも触れているので、他の異文資料を見て書いているのは確かだ。また、氏は、ネストレの異読記号の読み方も知らない宣教師たちが、アメリカ版を作ってくれと言ったとくりかえしくりかえし主張しているのだから、記号の読み方を間違うわけもないだろう。としたら、何をもって<エイレナイオスは「神の子キリスト」が欠け、単に「イエス」とのみ記している>ことが「正しい」と書いているのだろうか。まあ、我々素人相手の本なんで気軽に書いただけのことかもしれないが、そういう資料があるなら示して欲しいところだ。

※ちなみにネストレ27の序文には、III.4.教父の引用の箇所にこうある。「そこで、教父の引用をこの版に含めることについて、二つの主要基準が守られている。第一は、引用が本文批評にとって有益であることである。すなわち、著者の引用する新約聖書本文はそれとして確認できるものでなければならない。著者たちによるパラフレーズ、変形、あるいは単なる言及は、新約聖書の批評版の注には入れられない」(橋本滋男・津村春英 共訳、財団法人日本聖書協会)。こうした厳しい態度が、評価欄の記述の相違にあらわれている可能性は高い。いずれ、検討してみたい。

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2006/08/19

ネストレ25版

 最近、手に入れた本から。

 8月初めに、神田の友愛書房で購入。確か1000円。「コロサイ人への手紙」あたりに、いくつか書き込みがあるせいだろうけど、安い!ネストレは、26版から本文を大きく転換したため(現在は27版で、これは26版と基本的に同じ本文)、ある意味ではメモリアルな本だろう。

 田川建三氏に言わせれば、ネストレ26版は、同じアーラントが編集に参加しているUBS3版=田川氏のいわゆる「アメリカ版」と本文を同一にした結果、アメリカの植民地主義・キリスト教ドグマにあわせるテキストを作ろうという気持ちが働き、どの読みを本文に採択するかという選択において「保守的な傾向をまぬがれていない」という(『書物としての新約聖書』勁草書房)。そのことの当否はここでは問わないが、この25、26版、大事なところで違いがあるのも事実だ。

 一番わかりやすいところとして、マルコ1:1 の「イエス・キリストの福音の初め」の部分の画像をアップしてみた。右ページの表題「KATA MAPKON(マルコのよる)」に続く1行目、その最後にある小さな「T」の字に似た記号は、そこの部分に挿入される「異読」があるということを示している。新共同訳などでは「神の子イエス・キリスト」となっていることからわかるように、ここには「神の」「子」という2語が入っている写本がある(B=バチカン、D=ベザ、L=レーギウス、W=ワシントンほか)。「神の」「子」にあたる部分は、シナイオリジナルやΘ=コリデティ、小文字写本28ほかの写本にはないので、25版ではこの「神の」「子」なしの方を採用していたのだが、26版からは判断がひっくり返って、括弧付きながら、[神の子]が追加されたという事情がある。このあたり、

<以上、どう考えても「神の子」は後世の挿入である。だからこそ、正文批判がひたすら学問的批判精神のみに依拠して発達していった重要な時期の学者たちはみな(ティッシェンドルフ、ウェストコット・ホート、ネストレ二五版まで)一致して、「神の子」のない「短い読み」を本文として採用していたのである。それが、宣教師用のアメリカ版で「神の子」が導入され、それに引きずられてネストレ二六版でも導入されてしまったのだ。二六版が必ずしも二五版よりもよくなったとは言えないことの一例である。>田川建三・上記本、p.475-476

っていう御説もあるのですが、皆さんはいかがお考えでしょうか(笑)。この箇所については、また別稿を期したいが、ちなみに一言だけ。

 今現在、ネストレの付録には、このマルコ1:1の「神の子」の箇所について「T (H) N ut  シナイ」と記されており、これはつまり「ティッシェンドルフと(ウェストコット=ホルト)とネストレ25版は、シナイ写本のオリジナルと同様である」という指示だ。が、細かい話で恐縮だが、丸括弧付きの(H)=(ウェストコット=ホルト)は、この版の本文はこの読みを示すが、「欄外に等価の異文を提示してるもの」という意味を示す記号である。つまり、「ウェストコット=ホルトの決定は、彼らの本文に採用された読み方のみを引用することによっては再現できず」、ここも「彼らが、劣っていると評価したのではない」ことを読み取らねばならないのだ。

 ともあれ、しばらくは、あちこち眺めて楽しんでみたい本だ。

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