ハイドン 106の交響曲をつぶやく(第3番)
モルツィン交響曲の最後は、第3番ト長調。我々が古典派交響曲に期待する楽章配置、「SLMF」つまり「急・ソナタ楽章ー緩徐楽章ーメヌエットー急・ソナタ形式のフィナーレ」をとる。ハイドンにもこれ以降だんだんとこのパターンが増えてくるが、これまででは第20番が唯一そうだった(終楽章が三部形式だったが)。
ホグウッド全集の監修者ジェイムズ・ウェブスターによれば、この第3番と前作第15番の筆写譜はいわゆる「フュルンベルク手稿譜」に含まれるが、その中の他の作品よりも「後の作成と思われ、年代的信頼度に欠けている」としている。ただし1762年にゲットヴァイク修道院がこの作品を入手していたという。
これはランドン版楽譜の序文にも触れられているが、この事実は第3番がエステルハージ家以前のものということを強く示唆している。いずれにせよ、高弦の附点2分音符4つの動機に対し、低弦の16分音符が対位法的にからんでくる曲の冒頭から、書法的に非常に充実している音楽であることは間違いない。
※注 ちなみにデイヴィス盤全集は、第15番からすでに「エステルハージー侯のために書かれた初期の交響曲」という分類に入っている。このあたりの曲の正確な作曲時期は誰にもわからない、というのが本当のところだ。
そのデイヴィス盤を選ぶ。4分の3拍子・アレグロの音楽はもう提示部では短調にはならない。途中、柔和な第2主題がObとVnとの対話で出るのも新しい。展開部はニ長調で出た冒頭主題が「レドシラソ」という短いブリッジで下がってきて、ト長調で主題を早々と再現させるというおなじみの手法が見てとれる。
展開部はこのあと短調になるが、意外に短く33小節しかない。むしろ再現部に入りObで出る第2主題の前に、各主題が立体的にからみあう聴かせ所がある。デイヴィスの演奏はクレヴァーであり、かつクールな演奏。こうした曲の構造を見てとるには最適だ。その冷静さがいまいちだという人もいるだろうけど。
第2楽章はト短調のアンダンテ・モデラート。主短調で書かれるのは異例だと思うが、ハイドンではすでに5曲目。弦のみの編成で、すべてアウフタクトのリズムで進行するのが特徴。展開部の最後に音楽が急に深まる部分があり、デイヴィスはこれをクレッシェンド気味に弾き印象深く奏する(後半のくりかえしなし)。
Ob&Vnと、低弦とが、同音のカノンで出る第3楽章のメヌエットは、今までで最もいいメヌエット楽章と言えるだろう。低弦の自立的活躍は目覚ましく、デイヴィスの潔い音楽づくりも相まって、極めて立体的な音楽に聴こえる。一方、トリオは、Obとホルンの「Soli」が大活躍する華やかかつ楽しい音楽。
第4楽章の「Finale Alla breve」は、文字どおり2分の2拍子の速い楽章。ニ長調で「ドーレー(下がって)シードー」という2分音符が4つ並んだ主題が1Vnに pp で出て、これに2Vnの対旋律がからみ、二重フーガとなって壮麗に進んでいく。この主題の入りは全楽器の声部に伝えられ、都合6回数えられる。
反復はなしで131小節ある。出だしは第25番の終楽章に似ているが、ソナタ形式全体の中にフーガを巧妙に融合させている点で余程進んでいる。冒頭出た対旋律主題は最初以降使われず、すぐ後に出る8分音符の動機と、第2主題の「休・タタタ/タタター」という動機とが、フーガ主題と複雑に絡み合い展開する。
デイヴィスの演奏はまったく私心なくこの音楽に向っていて、しかも各動機を明確に聴き手に提示する。このため音楽の構造が楽譜を見るように伝わってくる。これに比べると、他盤の多くは勢いが勝ったり、特定の動機を強調するなど演奏者の味付けが目立つ関係で、全体の構造が不明瞭になりがちである点が気になる。
無論、それらの味付けが各盤の個性になるわけで、例えばドラティ盤を採ればより劇的でスリリングなフーガが聴ける(デイヴィス盤でなく、むしろこちらの方がライヴ風だ)。第2楽章あたりはここでは速めのテンポで弾き進んでいる。
一方、ホグウッド盤を採れば全体のテクスチャーは非常にすっきりしていて、終楽章での各動機は見分けやすいが、線の細さがどうか、というところ。グッドマン盤はフーガ楽章もそうだが、全体にオーボエ、ホルンの音色がヘンデル風に華やかで、聴き応えがある。これも演奏の質は高い。
Naxosのガロワ盤はレガート気味で弾かれる上、残響豊かな録音なのでフーガ楽章やメヌエットでは音楽の立体感が弱まる。美しい演奏だが。フィッシャー盤もここまでレガートではないが残響は多め。どの盤よりも洗練された演奏で聴ける。もっとおっとりした演奏が好きな方は、シェパード指揮のカンティレーナ盤で。
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