2013年1月 3日 (木)

ハイドン 106の交響曲をつぶやく(第3番)

モルツィン交響曲の最後は、第3番ト長調。我々が古典派交響曲に期待する楽章配置、「SLMF」つまり「急・ソナタ楽章ー緩徐楽章ーメヌエットー急・ソナタ形式のフィナーレ」をとる。ハイドンにもこれ以降だんだんとこのパターンが増えてくるが、これまででは第20番が唯一そうだった(終楽章が三部形式だったが)。

ホグウッド全集の監修者ジェイムズ・ウェブスターによれば、この第3番と前作第15番の筆写譜はいわゆる「フュルンベルク手稿譜」に含まれるが、その中の他の作品よりも「後の作成と思われ、年代的信頼度に欠けている」としている。ただし1762年にゲットヴァイク修道院がこの作品を入手していたという。

これはランドン版楽譜の序文にも触れられているが、この事実は第3番がエステルハージ家以前のものということを強く示唆している。いずれにせよ、高弦の附点2分音符4つの動機に対し、低弦の16分音符が対位法的にからんでくる曲の冒頭から、書法的に非常に充実している音楽であることは間違いない。

※注 ちなみにデイヴィス盤全集は、第15番からすでに「エステルハージー侯のために書かれた初期の交響曲」という分類に入っている。このあたりの曲の正確な作曲時期は誰にもわからない、というのが本当のところだ。

そのデイヴィス盤を選ぶ。4分の3拍子・アレグロの音楽はもう提示部では短調にはならない。途中、柔和な第2主題がObとVnとの対話で出るのも新しい。展開部はニ長調で出た冒頭主題が「レドシラソ」という短いブリッジで下がってきて、ト長調で主題を早々と再現させるというおなじみの手法が見てとれる。

展開部はこのあと短調になるが、意外に短く33小節しかない。むしろ再現部に入りObで出る第2主題の前に、各主題が立体的にからみあう聴かせ所がある。デイヴィスの演奏はクレヴァーであり、かつクールな演奏。こうした曲の構造を見てとるには最適だ。その冷静さがいまいちだという人もいるだろうけど。

第2楽章はト短調のアンダンテ・モデラート。主短調で書かれるのは異例だと思うが、ハイドンではすでに5曲目。弦のみの編成で、すべてアウフタクトのリズムで進行するのが特徴。展開部の最後に音楽が急に深まる部分があり、デイヴィスはこれをクレッシェンド気味に弾き印象深く奏する(後半のくりかえしなし)。

Ob&Vnと、低弦とが、同音のカノンで出る第3楽章のメヌエットは、今までで最もいいメヌエット楽章と言えるだろう。低弦の自立的活躍は目覚ましく、デイヴィスの潔い音楽づくりも相まって、極めて立体的な音楽に聴こえる。一方、トリオは、Obとホルンの「Soli」が大活躍する華やかかつ楽しい音楽。

第4楽章の「Finale Alla breve」は、文字どおり2分の2拍子の速い楽章。ニ長調で「ドーレー(下がって)シードー」という2分音符が4つ並んだ主題が1Vnに pp で出て、これに2Vnの対旋律がからみ、二重フーガとなって壮麗に進んでいく。この主題の入りは全楽器の声部に伝えられ、都合6回数えられる。

反復はなしで131小節ある。出だしは第25番の終楽章に似ているが、ソナタ形式全体の中にフーガを巧妙に融合させている点で余程進んでいる。冒頭出た対旋律主題は最初以降使われず、すぐ後に出る8分音符の動機と、第2主題の「休・タタタ/タタター」という動機とが、フーガ主題と複雑に絡み合い展開する。

デイヴィスの演奏はまったく私心なくこの音楽に向っていて、しかも各動機を明確に聴き手に提示する。このため音楽の構造が楽譜を見るように伝わってくる。これに比べると、他盤の多くは勢いが勝ったり、特定の動機を強調するなど演奏者の味付けが目立つ関係で、全体の構造が不明瞭になりがちである点が気になる。

無論、それらの味付けが各盤の個性になるわけで、例えばドラティ盤を採ればより劇的でスリリングなフーガが聴ける(デイヴィス盤でなく、むしろこちらの方がライヴ風だ)。第2楽章あたりはここでは速めのテンポで弾き進んでいる。

一方、ホグウッド盤を採れば全体のテクスチャーは非常にすっきりしていて、終楽章での各動機は見分けやすいが、線の細さがどうか、というところ。グッドマン盤はフーガ楽章もそうだが、全体にオーボエ、ホルンの音色がヘンデル風に華やかで、聴き応えがある。これも演奏の質は高い。

Naxosのガロワ盤はレガート気味で弾かれる上、残響豊かな録音なのでフーガ楽章やメヌエットでは音楽の立体感が弱まる。美しい演奏だが。フィッシャー盤もここまでレガートではないが残響は多め。どの盤よりも洗練された演奏で聴ける。もっとおっとりした演奏が好きな方は、シェパード指揮のカンティレーナ盤で。

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2013年1月 2日 (水)

ハイドン 106の交響曲をつぶやく(第15番)

第15番ニ長調。何も曲のことは調べずに、CDから流れてくる曲を聴いてみると(そういう方がハイドンの新しさや実験精神を身をもって体験できていいと思う)、さわやかなアダージョの音楽で始まるところがまず目を引く。特に冒頭から活躍する「Soli」のホルンが印象的。

曲の感じとしては第5番の第1楽章に似ている。そのホルンと1Vnとが穏やかな対話を続けるあいだ、2Vnと低弦はピチカートでこれを支える。ここではオーボエは沈黙している。途中イ長調に変わるがすぐに主調で冒頭主題に戻る。その後、主短調になり陰影を濃くする。

ただし音楽はそのまま静かにニ短調に終始し、急にニ長調のアレグロの音楽になる。「やはり序奏だったのか!」。反復はないようだが小さなソナタ形式か(第2テーマ後半が属短調になるタイプ)。聴きなれたようで、第2テーマ前半の16分音符の連続からなるせわしないフレーズが、少し新しい印象。ところが・・・

再び先ほどのゆっくりとした音楽が戻ってくるので、びっくり。緩・急・緩の構成は、バロック時代のフランス風序曲の形式に近いし実際そういう解説もあるが、緩・急・緩・急の形を「教会ソナタ」とするのと同様に、我々後世のものが、そう呼んで安心しているだけ、という感じが多分にある。

ハイドンの音楽は、その種の「古い皮袋」に新しい酒を盛るという感覚からはむしろ遠いのではあるまいか。あふれるばかり機知とアイディアが沸いてきて、どんどんと聴き手を追い抜いていくのみ・・・。今回聴いているのはNaxos全集からマロンによる演奏。美しい高弦と清潔なフレージングが耳を捉える。

第2楽章は前作・第32番と同じくメヌエット。主部は管も加わって華やか。附点リズムの多用によるはずむような音楽である。対して下属調・ト長調のトリオでは、ヴィオラ(Sola=Soloの女性形)とチェロ(Solo)という低弦コンビが旋律を弾く。これは初めての指定。ランドン版では楽段最初の楽器名に「Viola sola」「Violoncello solo」と直接書かれている。

※重要な注 ただこの曲の楽器編成は資料間で異同が多い上、まだ新ハイドン全集が発刊されていない。なので上記が正しい処置なのか、今の時点で私にも断言はできない。この視聴記も(デイヴィスの全集も)作曲順を参照しているゲルラッハの『Haydn-Studien 1996』に掲載された論文「1774年までのハイドン交響曲、年代記のための研究」によれば、トリオのソロはVcとだけ記されている。また実際、Vcの方がVaより上のパートを弾いている箇所があってよく目立つ。(※以下、2014/2/9の注)上記で2013年1月2日の私は、「まだ新ハイドン全集が発刊されていない。」と書いた。が、実は同じ頃、この交響曲を含む「新ハイドン全集I,2・Sinfonien um 1761-1765」は出されていたようだ(2012年の終わり頃だろう)。最近、やっと手に入れて調べてみると、楽段最初の楽器名は普通のVa、Vcで、最初の小節にともに「Solo」とある。※マークがついているので、これに従い「序文」を読んでみると、交響曲第15番の場合、オーボエやホルンに付けられたソロ・マークと同じで、いつものハーモニーの間を埋める役目ではなく、メロディーを弾くという意味、というようなことが書いてあった。ただし、実際の演奏現場では下記のようにソロ扱いが普通だろう。

第25番の項でこの時期の「Soli」という指定が、一人で弾くという意味ではないだろうということに触れたが、ここでの「Sola」「Solo」はヴィオラ、チェロともに独奏扱いがされている。マロン盤はVnも独奏で弾かせていて、晩夏、田舎の祭りで奏でられる農民たちの踊りの音楽という風情である。

トリオ等で弦を必ずと言っていいほど独奏にするフィッシャーは、セオリーどおりここも各パート一人で弾かせているが、フォルテの合いの手部分だけVnを増やす(珍しくドラティも同じ処理)。ホグウッド盤の弦は 4-4-1-1-1 編成で、もともとヴィオラ、チェロとも一人で弾いているのだが、Vnは複数で弾いている。

第3楽章はトリオと同じト長調によるアンダンテ。4分の2拍子。16分音符が4つ続く動機が全体を律していて、人なつっこい滑らかな曲想が静かに染みてくる。当然のことながらそのトリオと雰囲気が似ているが、こちらは弦のみの編成。マロンの演奏は、速すぎず遅すぎずというテンポが心地よい。

第4楽章の「Finale Presto」はニ長調に戻るが、8分の3拍子となる。全体の楽章配置同様、後半2楽章の調性関係や拍子記号は、前作の第32番と類似性があるが、これは番号順で聴いてきた場合は、まず気づけないだろう。珍しくABAの三部形式で、各部分の構造も含め形式的にはメヌエット風になっている。

さらに中間部が、弦のみによる主短調=ニ短調の音楽になるのが特徴。一度聴いたら忘れないような1Vnのメランコリックな旋律を、2Vnが16分音符の無窮動風の動きで装飾する。ただしマロン盤はことさらに短調部を強調せず、全体の構成をすっきりまとめている。

以下は他盤の短評。デイヴィスは第1楽章の1Vnの旋律に対するホルンのSoliやアンダンテの旋律で、音価を少し短めにとるなど、非常に現代的な演奏。トリオの編成はVaとVcのみ独奏となる。終楽章も速めのテンポ。逆にフィッシャーはこの曲では、全体にかなり遅めのテンポで、終楽章はまさにメヌエット風。

ホグウッドとグッドマンも余裕を持ったテンポ採りで、古楽器の鄙びた音色が典雅な印象を与える(トリオの扱いも両者同じ)。同じ遅めの演奏でも、この曲に大きさを求めるなら、やや<もさっ>とした音響ながらドラティ盤を選ぶしかない。第1楽章の序奏後半や、終楽章の中間部に出てくる短調部の陰影の濃さもさすがである。

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2012年12月26日 (水)

ハイドン 106の交響曲をつぶやく(第32番)

少し趣向が変わって次の交響曲はハ長調、第32番。調性から想像されるとおり、祝祭的な序曲で、急・緩・緩・急の4つの楽章を持つ。ただし2番目にメヌエットがくる。確か2曲目に聴いた第37番(こちらもハ長調)が同じ形式であった。楽章配置にハイドン流のこだわりでもあるのだろうか。

こちらは通常の管編成(Hr2,Ob2)に2本のトランペット、ティンパニが加わる。ここにもホルンのアルト・バッソ問題があるが、今回はバッソ採用のデイヴィス盤で聴く。4分の2拍子で「ドー(下の)ソ、ミー(下の)ド、ソー(上の)ド」と上がり、素早く「ソファミレド」と下がってくるおなじみの形。

曲はやがてト長調に転調し第2テーマ部に。そこでアウフタクトに8分音符が4つ続く悲しげな主題をト短調で出す。ドラティ盤の曲目解説(ランドン)では「交響曲第1番と同様、第2主題を主短調で出しており」と書くが、これはおそらく「dominant minor(属短調)」の誤訳ではないか。

ただし第1番交響曲も調性の違い(ニ長調)はあるとはいえ、属調に移ったあと属短調のテーマを導きだしており様式的には同じグループだろう。またこのグループでは、展開部であれほど多用していた冒頭テーマの主調による疑似再現は採らない。転調の経過等はこの32番の方がずっと手がこんでいるが。

その展開部では第1テーマや第2テーマの動機が、一部は対位法的に手際よく扱われ、最後は第2テーマ部の後半に出たト短調の主題の冒頭リズムをくりかえし再現部へ。再現部では主調のままで進み、このテーマは再現されない。デイヴィス盤の演奏は、やや遅めのテンポでスケール豊か。

第2楽章は上述のようにメヌエット。曲も演奏も特に奇を衒った点はないが、ティンパニも加わり音楽としての柄は大きい。トリオは弦のみで弾かれ、主短調であるハ短調になるのが特徴。この点は第37番と同じ。対照的に深く物思いに沈み込むような内省的な曲で、3楽章に控える緩徐楽章と呼応している。

そのアダージョ・マ・ノン・トロッポは、ヘ長調(下属調)。弦のみの編成で第1楽章と同じ4分の2拍子となるが、冒頭の1Vnと2Vnの旋律のからみから優しいテーマが浮かび上がり、しばし夢の中のような気分に聴き手を誘う。デイヴィスは感傷を排し、しかし美しい響きで曲の良さを一層引き立てる。

最後は8分の3拍子の溌剌としたハ長調の「Finale Presto」。アウフタクトのついた「ドドド/ドー」と4つのハ音の連打に始まる。このリズムが全体の基本となる。ト長調の第2テーマ部後半で、冒頭楽章と同じく、やはり一瞬4小節だけだがト短調になる部分がある。展開部は冒頭動機の模倣進行に始まる。

曲は短調に傾いた後、ロ長調に終止。さらに転調しながら再現部へ。先述の短調部はハ短調に変わる。熱狂しすぎず、かつライヴとは思えぬくらい正確なデイヴィスの演奏は、こういう曲で光る。他の演奏だとあっという間に終わってしまう印象さえあるこの楽章から、音楽の手触りをじっと引き出してくる。

デイヴィス盤以外はすべてアルトのホルンを採用。トランペットと高音を競う。トランペットは第1楽章で C3(3点ハ)を出すが、A2 までのホルンの方が出番も多いし音響的にも目立つ。ホグウッド盤は古楽器の Trp & Tmp が古風というか、軍楽隊の楽器という感じで音を聴いているだけで楽しい。

一方、ホグウッドのアンダンテは遅いテンポで、全編が古い思い出のよう。提示部・再現部の終わりにくりかえし出てくる柔和な小結尾部も、なつかしさをかみしめるように一歩一歩ゆっくり進む。これは彼らの準全集の中でも白眉といえる名演であり、いつまでも聴いていたい気分になる。

ドラティのアンダンテも高弦が、時に熱っぽく、時にしみじみとよく歌う。かなり以前の録音だけれど高音ホルンの効果もいつもながら最高に格好いい。フィッシャーは第1、第2楽章、フィナーレを誰よりも速く演奏する。アルト管ホルンの効果もあって、ドラティ顔負けの推進力(第2楽章のトリオは例によって独奏)。

最後はNaxos盤。第37番以来、久しぶりにミュラー=ブリュールの担当。実力者だけあって、各楽章とも衒いのない、しかし説得力のある指揮ぶり。彼らが担当する曲はいつも安心して聴ける。この交響曲については、4全集とホグウッド以外、録音は見かけたことがないが、もっと演奏されてもいい。

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2012年12月24日 (月)

ハイドン 106の交響曲をつぶやく(第5番)

第5番イ長調。イ長調の曲はこれまででは初めて。この曲も引き続き、緩・急・緩・急の4楽章形式。イ調のホルンは、アルト管のある変ロ調、ハ調以外では最も高い調になる。この曲でも非常にかん高い2本のホルンの「Soli」が、冒頭の楽章(アダージョ・マ・ノン・トロッポ)から響きわたる。

その陶酔的なまでの美しいホルンの音が印象的なドラティ盤で聴く。まるで朝一番にのどかな牧草地に流れてくる音楽のよう。というかヘンデルのオペラの一場面で羊飼いが登場し歌うダカーポ・アリアの前奏、と言われても、うなずいてしまいそうだ。美しい。

4分の2拍子の曲は牧歌的な雰囲気のまま属調のホ長調に。展開部は型通りホ長調で主題を出した後、5小節後にイ長調で同じ主題を出す。さらに短調に。その後の再現部で、第1ホルンはなんと第16倍音!高いAの音を吹く。これはほとんど類例がない倍音を出すことをハイドンは要求している。

管楽器は基音が高くなる、つまり管の長さが短くなるにつれ、高い音を取りまわすことが難しくなる。モーツァルトの有名なイ長調交響曲(第29番)でも、第12倍音がたまに出るくらいで、基本は第10倍音までで押さえている。ハイドンはここで余程、特殊な事情を考えていると見なさねばならない。

このあたり自分専用の楽団をついぞ持つことができなかったモーツァルトの方が、交響曲等の分野では、曲構成や演奏技巧としては演奏者たちに過度な要求をしない標準的な書き方をしていた、というひとつの好例になるだろう。ちなみにドラティ盤はチューニング音も基本高めで、余計華やかな印象になる。

ドラティは後半のくりかえしは省略。第2楽章、4分の3拍子のアレグロ(イ長調)に入ると、曲は一転、音の飛び幅の大きい、楔形スタッカートのついたごつごつとした感じの主題に始まる。やはりホ長調に転じ、T32,33から1Vnに伸びやかな第2テーマが出る。始めの部分は2部のVnのみで出る。

展開部は冒頭の動機の模倣進行に始まり、多分にバロック風に展開する。途中、短調に傾き平行調の嬰ヘ短調に。そこからは第2テーマ部後半の1Vnと低弦の対話部分を扱って再現部へと向う。第3楽章は2つのメヌエットという表示。ともにイ長調。メヌエット1moは f と p の交錯がおもしろい。

メヌエット2doでは、再びホルンの「Soli」と1番オーボエの「Solo」が現れ、田舎の紳士同士の挨拶のようなユーモラスな対話を行う。ホルンは2度(反復を入れると4度)、高いAの音に挑まねばならない。ドラティは軽快なアレグロとゆったりと構えたメヌエットとで効果的な対比を作る。

終楽章の「Finale Presto」、イ長調。アレグロ楽章にもあったが、ここも2部のVnだけで始まり、全奏部分と2度大きな対比を作って始まる。「ソ」から順に下がってくる動機の対位法的な扱いが目立つが、短調にもならず、ほぼ展開らしい展開もなく極めて短く終わる(59小節)。2分に遠く届かない。

この終楽章は前作・第11番の終楽章のちょうど半分の長さしかない。その他の演奏でもほぼドラティと同じくらいのタイムで終わってしまうが、さらに爆走と言っていいのがトーマス・ファイ盤。ただでさえ速いのに、途中、展開部の反復時からさらにクレッシェンド&アッチェレランドをかける!

このファイ盤。逆に第1楽章は今にも止まりそうなテンポで始めるのだから、確信犯であることは間違いない。第2楽章のアレグロも、提示部の反復時にはリズム&テンポがさらに前のめりになるというユニークさ(事故ではないだろう)。これを標準盤にはできないにせよ、一度は聴いておく必要がある。

デイヴィス盤は例によって速いすっきりとしたアダージョで聴いていて気持ちがいい。アレグロとプレストも普段よりは速めの演奏で、ここでは抵抗は少ない。フィッシャーは上記のVnだけで弾く部分を中心に弦を独奏にするが、そろそろ手の内が見え透いてきた感もある。

ガロワ盤の弦は、スタッカート気味にする箇所とスラー気味にする箇所の弾き分けを強調。速い楽章ではファゴットがよく目立つ。ホグウッド、グッドマンは、この曲でもナチュラル・ホルンやクラシカル・オーボエが見事。上ではホルンの高音のことばかり書いたが、オーボエも高音は難しいらしい。

ここまでアダージョの音楽で始まる交響曲を3曲連続で聴いてきたが、若きハイドンの柔軟な発想が確かな技法と結びついて、なかなか面白くなってきた。ひとつひとつに新しい試みが見られるので、聴き飽きない。モルツィン伯爵家時代の曲もいよいよあと3つのみ。

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2012年12月23日 (日)

ハイドン 106の交響曲をつぶやく(第11番・その2)

その1から続く)

第11番交響曲の第3楽章はメヌエット。構成的には7小節+5小節という変則的なもので、ちょっとリズム的に入り組んだ感がある。トリオは弦のみで奏される牧歌的な曲。珍しく変ロ長調をとる。トリオを属調にするのは、これまででは第20番があったのみ(あと同名短調をとるのが第37番)。

トリオの後半部の始めにシンコペーションのリズムで、変ロ短調の音階をソから下がってくる印象的なところがある。シェパード盤は主部を元気にはずむように演奏した後、トリオではっきりテンポを落としこれを際立たせる。ここにも前回見たフュルンベルク・コレクションの筆写譜に従った異同がある。

冒頭の1Vnが「ソ・ソ・ファ・ミ・シ・ド」と奏するのがランドン版。しかし、新全集は始めの3音をソから半音づつ下がるバージョンを採る(つまり f-e-es。他に f-f-f となる筆写譜もある)。CD録音は今のところすべてランドン版を採るが、これからは新全集によるものも増えてくるかもしれない。

終楽章は「Finale Presto」。4分の2拍子。119小節もあり、この時期としては長大かつ凝ったもの。主要主題は今見たトリオと同じく、シンコペーションのリズムで始まるし、これは第2楽章アレグロのテーマを下がってくる形になるので、以前の楽章を総括するという印象にもなる点も新しい。

第2テーマ部は型通り変ロ長調に。第1テーマと同じ音型・リズムを扱うので、単一テーマで構成されているように見えるが、リズムに変化があり飽きさせない。展開部の冒頭は例のシンコペーションリズムを2部に分けた弦で対位法的に扱い、p  の指定も加わりかなり入り組んだ構成。

展開部はその後一度短調になり、再現部で冒頭主題が主調で戻ってくるが、すぐまたヘ短調、ト短調と数小節ごとに転調するなどめまぐるしい展開。カンティレーナのプレストは、速めのテンポで3分半で駆け抜けるが、弾きとばしているようなところは皆無だ。速いパッセージを弾く弦がなかなか手際よい。

これに比べれば、デイヴィス盤の終楽章はプレストの音楽にしては遅すぎる。逆にアダージョ・カンタービレは速くすっきりしていて、これはこれでおもしろいのだが。ドラティ盤は、弓を目一杯使い、いつも以上に美しく弦が歌うこのアダージョ楽章が白眉。他楽章の構成力も相変わらず高い。

フィッシャー盤の冒頭楽章は、ゆったりとした演奏で細かい表情が付いている(10分29秒)。旋律を歌う奏者たちが皆うまいのも解るし、文句のつけようがないのだが、この楽章についてはもう少し素朴な表現を私は好む。メヌエットでは弦が部分的に全奏と独奏で対比をつける(トリオは弦の独奏)。

ガロワ盤はこの曲では意外に正攻法、というか成功した演奏。いきいきとしたアレグロ楽章、はずむようなメヌエット、その後に来る圧倒的に高速な終楽章! トリオの短調部で低弦に付けられた楔形スタッカートや、終楽章の展開部冒頭につけられた強弱の対比をこの盤のように強調する演奏はない。

この曲の場合、非常に凝った作りなので、ガロワ盤のようにそれを明確に見せるやり方もあり、なのだと思う。一方、ホグウッドやグッドマンはともに古楽器を使い、音程も半音ばかり低い上、各声部の分離もいいのでまた違った印象になる。この曲ではナチュラル・ホルンの名技性も聴きどころだろう。

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2012年12月22日 (土)

ハイドン 106の交響曲をつぶやく(第11番・その1)

第11番交響曲変ホ長調。前作の第25番と同じくゆっくりとした音楽(アダージョ・カンタービレ)で始まる。が、こちらは序奏ではなく、前半後半の2部を持つ独立した楽章となっている。全体としては、緩・急・緩・急、後世でいう「教会ソナタ」風の楽章配置となる。

その冒頭楽章は4分の2拍子ながら3連符のリズムに彩られた流麗な音楽。今回はエイドリアン・シェパード指揮カンティレーナ(Chandos盤)を選んだ。というのもこのカンタービレが非常に美しく演奏されているから(彼らには1-12,22,24,30,43,44,49の録音がある)。

(※後記 まず冒頭の主題が、珍しく2Vnで、しかも変ホの第5音である変ロから出て、その後、5小節目に1Vnが主音である変ホの音から同じ主題を出す、という点に触れるべきだったろうか。)

優美な旋律はモーツァルト風でもあるのだが、この演奏ではおっとりとした弦の響きが、うま過ぎずしかし丁寧に歌い、独特の懐かしさを感じさせる。まるで老婦人が暖炉の前で古きよき時代を思い出しているときのような・・・。時折、ホルンの音が遠雷のように聴こえ、その折だけ婦人は目を開ける。

そのホルンについて、井上太郎氏は『106の』の中で「ハイドンは筆写譜に数カ所手を入れている」と断定的に書くが、それはT28-31(T75-78)のことだろう。ランドン編のフィルハーモニア版では、訂正後つまりタイでつながった2分音符が3つ+4分音符が採用されている。

他の筆写譜はT28,30(T75,77)に4分音符があるのみ。この違いはフュルンベルク・コレクションにある筆写譜に「ハイドン自身による訂正が見られ」るとしたランドンの判断(上記スコア序文)によるものだが、そういう記述を見るとまず調べ直してみたくなるのは私の悪い癖?だろう。

実はヘンレ版の新ハイドン全集ではここは4分音符に戻っている。フュルンベルクの筆写譜の訂正が、ハイドンの自筆によるものとしたランドンの上記判断が、その後の検証で覆ったためだという。今は「筆写者不明の訂正」ということになっている。ここはハイドン研究の進化が伺えるところ。

ただしCD録音ではすべて訂正後のロングトーンが聴かれるので、井上氏を責めても仕方ないところだが。まあそういうことも含め、他人の本の丸写しで文章を書くのは危険だということか。間違いを増殖していないか、私も自戒しなければ・・・。

あと細かい点だが、第1楽章の第2テーマ部、T18冒頭の16分音符が「ラ♭」の盤がある一方で、ランドン版の脚注にあるウィーンの筆写譜(や再現部の同じ箇所を参照)のようにナチュラル「ラ」の盤がいくつかある(ドラティ、ガロワ、デイヴィス、グッドマン)。新全集は[ ]付きでナチュラル。

T21にも異同があり、1Vnの旋律は「シ♭ーシ♭ー」が普通。だが、デイヴィス盤は「シ♭ーソー」とここもウィーン他の筆写譜を採用する。これもランドン版の脚注に指示がある。シェパード盤はくりかえしなしで、第2楽章アレグロへ。2分の2拍子。今度はオーボエも加わる。

こちらも前作の第25番の終楽章以上に、主題の対位法的な扱いが見事。特に第1テーマを変形させた第2テーマは、短いが明確にフガート的にテーマを出す。格好いい。展開部では例によってすぐ主調(変ホ長調)に戻り、短調に。バロック風の模倣進行がここでは目立つ。

カンティレーナはスコティッシュ・ナショナル管弦楽団のメンバーを中心とした団体だそうだ。現代楽器での演奏は取り立てて個性的というわけではないが、前楽章とは対照的に軽快なテンポと明解なアーティキュレーションで、はつらつとしている。こちらはくりかえしあり。

(以下は、その2へ)

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2012年12月21日 (金)

ハイドン 106の交響曲をつぶやく(第25番)

続いては、第25番ハ長調。作曲順収録のデイヴィスの全集CDを聴いていて、第107番<A>の次にこの曲が流れてくると、いつもハッと思う。なぜか?。第1楽章の急速な主部にゆったりとした序奏(23小節)がついていて、ここまで聴いたことのない円熟した曲に聴こえるのだ。

にもかかわらず通常の緩徐楽章はなく、第2楽章はなんとメヌエット、第3楽章は再び急速楽章、という独創的な楽章構成になっているのが目を引く。4つの楽章に見立てれば、一応、緩・急・緩・急という「協会ソナタ」形式にも見えるが、なかなか捉えがたい曲であるのも事実。

今回は、そのアダージョ部に3分かけているフイッシャー盤で聴く(他盤はせいぜい2分台前半。Naxosのガロワ盤にいたっては1分半しかない!)。この盤あるいは先述のデイヴィス盤(アダージョ部は2分44秒ほど)だとまるで後期の交響曲の冒頭部を聴いているように錯覚する。

序奏はやがて属音であるソの音を全楽器が3回奏して終止。4分の2拍子のアレグロ・モルトの主部に入る。速い。活発。前部との対比がよく効いている。まるで映画の始まりを見ていて、そこに急に人物が登場しタイトル曲とともに劇が動き出す場面のように感じる。

ランドンも「もとをただせば、1962年に上演されたハイドンの小オペラ(コメディア)のどれかの序曲だったのではあるまいか」と推測していた。この演奏を聴くとうなずける。第2テーマおよび提示部の終わりはト長調。が、展開部はハ短調の音階でGからCまで下がってくる。

この展開部はこの時期の定番どおり9小節後には主調に戻る(疑似再現部)。やがて短調部を含む激しい音楽になる。T133からが本当の再現部となり、祝祭的な雰囲気のまま楽章を終える。第2楽章の弾むようなリズムのメヌエットは、当然のことながらハ長調。

第3楽章もハ長調。つまりこの曲はすべての楽章がハ長調でできていることになる。また第2楽章のトリオには、初めて管=ホルンとオーボエが加わるが、これらにやはり初めて「Soli」の文字が。これはいわゆる「Solo=ソロ」の複数形だが、一人で吹くという意味ではない(もともと管奏者は各パートが一人という想定なので)。

つまりこの時期の「Soli」は、主旋律ということを示す記号。ハイドンの初期交響曲では通常、管楽器は旋律楽器(主にVn)をなぞったり、和音を補強しているのだが、「Soli」とあれば「主旋律」を吹くことになるようだ。室内オーケストラでは結果的にソロ=一人で吹くことにはなるが。

ということでトリオでは全弦楽器がピチカートで伴奏する中、ホルンおよびオーボエが牧歌的なテーマを気持ちよく吹き上げる。ちなみにフィッシャーはこの曲でもメヌエットの後半の p 部分でVnを独奏で弾かせているが、これは上記「Soli」とは関係ない(楽譜にも書いてない)。

終楽章は4分の2拍子のハイドン流プレストの音楽。「ソーラー(低く下がって)シードー」という4つの音のモチーフで始まりこれが楽章全体で活躍するので、よくモーツァルトの『ジュピター』交響曲(こちらもハ長調だった)の終楽章に較べられる。無論そこまで円熟した音楽ではないが。

でも展開部と再現部には、こちらの曲にも小規模ながら主題に対するカノン風の模倣がある。フィッシャー盤は奏者の技量も高く、これらの対位法的な箇所の扱いも見事。適度なテンポ設計も相まって、曲全体としてもその特徴・おもしろさをよく体現した好演になっている。

ドラティ盤の第1楽章冒頭は、テンポこそ普通だが、T7,8の f と P の交替、T15の f の強調、そしてバスの重々しい歩みによって、ベートーヴェンの交響曲の序奏のよう。その後も全体に強弱の振幅が大きい。そのあとでホグウッド盤を聴くとスコアが見えるような透明な音響に愕然となる。

ガロワは先述の超快速なアダージョ部の2度の終結部で、チェンバロの派手なアインガングを入れる。何かしら変わったことがしたい人だ(笑)。グッドマンは両端楽章の急速部が特に速い。軽快さは髄一。ただこの速さでは一部フレーズの終わりをはしょっているように聴こえる部分もある。

同じ箇所、デイヴィスの急速部はいつもより速めのテンポで、オケの状態もよく、抵抗なく聴ける。初期交響曲の内で特に中身の濃い曲なので、この盤のアドヴァンテージは高いのではないか。終楽章も後年、『ジュピター』に代表されるフガート・フィナーレに発展していく萌芽が感じられる演奏だ。

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2012年12月20日 (木)

ハイドン 106の交響曲をつぶやく(第107番"A"その2)

その1から続き)

第1楽章アレグロは、4分の3拍子。ド~ミ・ソ・ド・ミ・ソ・ドと2オクターブ上っていく弦に、管のリズミックなアクセントが加わり、輝かしく始まる。高音ホルンの音は当然目立つ。曲はこの冒頭主題の「タン・タタタ」というリズム動機を多用し明快に進んでいく。

やがて型通り変ロ長調から属調であるヘ長調に終止し、ここからが第2テーマ。こちらはやや柔和な感じで、この動機も展開部後半で使われる。その展開部はヘ長調からすぐに主調に戻るが、またすぐニ短調(属調平行調)からト短調(平行調)と日陰の中をさまよう。

古楽器使用のイル・カプリッチョの演奏は、速めのテンポかつ音価を短めにとり曲の構造が透けるような演奏。チェンバロもここでは効果的だ。ただし、後半のくりかえしで66小節目の短調部分での総休止を一拍弱長めにとり、少し緊迫感を出すあたりはうまい。

第2楽章は管なしのアンダンテ。下属調の変ホ長調、4分の2拍子。大きな音程跳躍を伴う冒頭の四分音符+2つの八分音符のリズムが全編を律しているのだが、その単純さとおおらかなユーモアはまさにハイドンならでは。後年の『驚愕』や『時計』の緩徐楽章をさえ思わせる。

イル・カプリッチョ盤は1Vnはソロ、2Vnもソロでピチーカート(Cbもピチカート)という編成で押し通し、これはおもしろいアイディア。チェンバロがなければまるで弦楽四重奏曲だ。当初、弦楽四重奏曲に間違って分類されていたというのもこれを聴くとうなずける。

第3楽章は8分の3拍子の元気な音楽。指定はアレグロ・モルトだが、イル・カプリッチョ盤はプレストのように速い。展開部の中間部分でやや短調に傾くけれど、そのほかはいつもの元気なハイドン流のフィナーレだ。最後に短いコーダがだめ押しのようについている。

同じく古楽器採用のホグウッド盤も、やはりフィナーレはかなり速めのテンポである。一方、彼は、アンダンテを5分半以上かけて丁寧に弾き進む。ドラティは演奏時間は3分49秒なのだがこれは後半をくりかえしていないので実際にはほぼ同じようなテンポだ。

このアンダンテ、こうした演奏ではユーモラスというよりどこかしら寂しさが漂っている。対してフィッシャー盤は3分44秒と最速で、前の2盤の後に聴くとあまりのあっけなさに笑ってしまうくらい。と思っていたら、Naxosのマロン盤はなんと3分4秒。くりかえしありで!

デイヴィス盤は中庸の速さ。前後のアレグロ楽章もいつもどおり余裕のあるテンポを採る。いつもは元気いっぱいのドラティもこの曲の両端楽章はゆったりと構えている。高音ホルンの音はこの盤が最も雄弁に響く。総じて、有名曲ではないが聴きどころが多い曲だ。

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2012年12月19日 (水)

ハイドン 106の交響曲をつぶやく(第107番"A"その1)

(※この項からは、2012年年末の記述となります)

今日の曲は第107番<A>。といっても第104番「ロンドン」の後に書かれたわけではない。弦楽四重奏作品1-5として出版もされていた曲が、もともと交響曲だったとわかったという。調性は変ロ長調。初めて登場する調だが、これには「第20番・その1」で書いたように「高音ホルン」の問題が生じている。

これはホルンを1オクターブ高めに吹く習慣のことで、今回聴いたどの盤からも輝かしいホルンの音を聴くことができる。ニール・ザスラウ氏によれば、高名なハイドン学者 ソーニャ・ゲルラッハは、C管はバッソ、B管はアルトという主張(ロンドン作品はのぞく)しているという。

その説は『モーツァルトのシンフォニー(東京書籍・刊)』p.179に紹介されているが、実際にゲルラッハ編纂の新ハイドン全集(第1系列第1巻)を見ると、以前聴いた第20番ハ長調には [basso]、第107番変ロ長調には [alto] の指示を括弧書きで付けている。

ちなみに[ ]は編者の補充という意味である。実はモーツァルトの作品にも変ロ長調の曲はある。例えば「ファゴット協奏曲 K.191」。新全集のホルン・パートにも「Corni I, II in Si♭alto/ B hoch」とある(ただしこの曲の場合、現在、自筆譜は行方不明である)。

が、必ず「アルト」と指示があるかというとそうでもない。変ロ長調の交響曲では第33番には指示があるが、第5番、第55番、第24番にはない。さらに1音高いハ調の曲でも「アルト」と指示された曲が一つある(交響曲第18番。あと細かく言えばほかにもアルト菅使用の指示がある曲がある)。

このあたりまったく複雑であり、学者さんのあいだでもこれが正しいというような定説はないようである。ホルンは管楽器の中核的存在だし、1オクターブも音高が違えばオーケストラのテクスチャーは相当変わる。しかし例えばモーツァルトの交響曲のCD録音でも結構ばらばらな対応である。

(※詳しくはこちら

つまりは(専門家も含め)我々は勝手にアルト採用の演奏を聴いては「輝かしい曲だ」と思い、たまたまバッソ採用の演奏に出会って「地味な曲だ」という印象を持つというような、ある種とんでもないことになっているのではないか、と大いに危惧している次第(私だけかもしれないが・・・苦笑)。

さて、また余談が過ぎたようだ。第107番<A>に戻ろう。実はモーツァルトの「ファゴット協奏曲 K.191」「ヴァイオリン協奏曲第1番 K.207」、そしてハイドンの交響曲第107番<A>、第108番<B>という変ロ長調の曲だけを集めたおもしろいCDがある(Musicaphonレーベル、NAXOSのNMLでも聴ける)。

古楽ヴァイオリン奏者のフリーデマン・ヴェンツェルが指揮するイル・カプリッチョという団体で、ファゴット・ソロはアッツォリーニ、Vn のソロはヴェンツェル自身。4曲ともにアルトのホルンが大活躍している。

この視聴記は原則として4種あるハイドン交響曲全集を聴いていくものだが、この交響曲は彼らのチャレンジに敬意を表し、第107番<A>をこの盤で聴いていくことにしよう。

※ただし厳密に言えば、「ヴァイオリン協奏曲第1番 K.207」の自筆譜には、ホルン・パートに「アルト」の指示はないようである。

207_2 

(続きはその2へ)

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2012年12月18日 (火)

ハイドン 106の交響曲をつぶやく(第19番)

交響曲第19番ニ長調。前作の第17番に続いて急-緩-急の3楽章制をとるが、それだけでなくこの2曲は作風的にもよく似ている。ゲルラッハが同時期の作として並べたのも理解できる。第1楽章はアレグロ・モルト、4分の3拍子。全楽器でドミソドと順にニ長調の和音を上がっていく明るい主題に始まる。

一聴した感じは平明そうだが、スコアで見るとまるでサッカー選手のボールまわしのように楽器同士がフレーズをやりとりし合っている。そこに被さってくるホルンのあいの手・・・この交響曲第19番第1楽章には、軽快なグッドマン指揮ハノーヴァー・バンドが一番似合う。これぞハイドンを聴く愉しみだろう。

曲は明るい調子のままイ長調に。展開部は冒頭主題のイ長調での再現に始まる。その後すぐにごく簡単なブリッジを経て同じ主題が主調のニ長調で出るがこれは疑似再現。やはり第17番の第1楽章とまったく同じ趣向(というよりこの時期の典型)。17番との違いと言えば、ホルンの打楽器的とも言える大活躍ぶりか。

展開部はその後すぐ短調に傾き、職人芸的手際のよさで既出の短いモチーフをつなぎ合わせながら、再現部を準備する。展開部でも単なる和音の補充という役割を越えてホルンの活躍は目立つ。このあたりのグッドマンの演奏は、爽快というよりむしろ痛快。作曲者に負けず劣らず見事なさばきを見せている。

ハイドンの交響曲第19番ニ長調の緩徐楽章は、第17番に引き続いて同主短調のニ短調をとる。アンダンテ、4分の2拍子。スラーとスタッカートが交錯する冒頭主題はやがて平行調のヘ長調へと移行する。4小節にわたりシンコペーションのリズムを刻んだのち、3連符を高弦が伝えていく小終止部が訪れる。

グッドマンは前にも書いたようにランドン版と新全集版を参照し、独自の楽譜を用意したとライナーノーツに書いているが、ここはランドン版のアーティキュレーションを全面的に採用しているようだ。後半部は冒頭主題を反復進行で3回くりかえしながら転調し、4回目には主調に戻るが、これも疑似再現。

疑似再現の後はシンコペーションや3連符など既出の動機を順番を変えて繰り出すだけで、極めてシンプルに本当の再現部へと向かう。再現部も21小節あった提示部を効率的に15小節にまとめることで、この短いが真珠のような輝きを放つ小楽章を終える。グッドマンはめずらしく後半部の反復を省略する。

第19番第2楽章でのグッドマンは極めて抑制した演奏ぶり。前半部の終止にベルリンの筆写譜に合わせ(シー)ドと前打ち音を入れたり、T12-13 のシンコペーションの前の終止にトリルを入れたりするくらいで、当のシンコペーションは f にもかかわらずおとなしい。しかしその分終楽章は元気!

その第3楽章は再びニ長調に。8分の3拍子のプレスト。速度記号こそ違うが、これで拍子記号や、楽章間における調性の構成は第17番と同じになる。曲は反復進行が多い上に、音階を上下するせわしない曲想が続く。以前にもあったがグッドマンは弦のトリルをホルンにも適用するので華やかさが増している。

終楽章の音楽は、ニ長調に始まり前半部の途中でイ長調に。展開部ではすぐ平行調のロ短調になり、反復進行のあと一端はまたイ長調に落ち着くが、以下再び短調の中をさまようという2段構え。この構成は規模こそ違うが第17番の第1楽章に似ている。グッドマンの演奏は速めのテンポで非常に爽快だ。

このグッドマンとハノーヴァー・バンドのハイドンシリーズ(ハイペリオン)は全集にはならなかったが、私の知る限りでCD17枚、57曲が出ている(これでもまだ約半分だが、初期交響曲は1番から25番までが揃っている)。古楽器使用でテンポも速め。リズムがはつらつとしていることが演奏に生気を与えている。

特にこの第19番を含む1枚は、第17番から21番までの5曲を収録しているが、ハイドンがエステルハージ時代に向けて自分のスタイルを確立していく上昇期にあるだけに、明るい音色と演奏スタイルが曲にふさわしい。第18番など私のパーソナルベストに近い。またいずれ、彼らの演奏に帰ってこよう。

(2012年年末の追記)

ドラティの第1楽章はグッドマンと同じくらい速く、やや荒っぽく響く。終楽章の展開部T51からのバスにつけられたフォルテ記号を強調。ここも野性味豊かで、しかしがぜん音楽が立体的になる。フィッシャー盤はあいかわらず弦が美しく、こちらの終楽章は優しい3拍子の舞曲のようだ。

一方、デイヴィス盤の冒頭楽章はいつもながら落ち着いたテンポで、チェンバロを交えながらゆっくり噛み締めるように進んで行く。音楽の格が少しあがったように聴こえる。終楽章も遅めで、ここでも低弦に重ねられたファゴットが「ポッコポコ、ポッコポコ」とユーモラスに響いてくる。

デイヴィスは、アンダンテでも要所要所で強弱をつけて、陰影深く歌う。ホグウッドはそのアンダンテで、上記のシンコペーションのリズムを、まるでフェンシングの剣で刺すように鋭く突きつける。彼らにしては異例なくらい踏み込んだ表現に、余計、緊迫感が募る。

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