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2012年5月 3日 (木)

伯爵夫人とスザンナ(その3)

 ということで(?)、今回は1789年の『フィガロ』ウィーン再演でのお話。昨日も触れておいたが、このとき伯爵夫人を演じたのは、モーツァルトがイタリア人歌手に較べても「ドイツが誇ってよい人たち」のひとりに挙げたカテリーナ・カヴァリエーリというウィーン宮廷劇場付きの名ソプラノ。ちなみにカヴァリエーリは、1760年生まれだから、モーツァルトの4つ年下。当時の『一般劇場年鑑1782年度版』という出版物には、「ブルク劇場(ドイツ国民劇場)」に雇われていた歌手の一覧があり、彼女についてはこうある。

1 カテーリーナ・カヴァリエリ嬢。ヴィーン生まれ。国民劇場では1778年の『鉱夫達』〔ウムラウフ作曲〕のゾフィー役でデビュ。若い恋人および娘役。(『モーツァルト・ゴールデン・イヤーズ』H.C.ロビンズ・ランドン著、中央公論社・刊)

 「若い恋人および娘役」が持ち役という彼女。この本『モーツァルト・ゴールデン・イヤーズ』には、彼女のデビュー作『鉱夫達』のおける舞台情景の銅版画が掲載されていて、これは本当にまだ少女という風情。そして、この『年鑑』の記述から数年後にあたる『フィガロ』の再演時にも、彼女はまだ29歳だから、軽い明るい声の歌手だったのだと想像される。『フィガロ』初演時の伯爵夫人役のルイーザ・ラスキ=モンベッリもさらに若い17661966年頃生まれだから、どちらの配役にしても「倦怠期を迎えた恰幅のいい中年の御夫人」というような感じはなかっただろう。この点では、この稿の(その1)で紹介した城所孝吉氏のいわゆる「伯爵夫人役をコロラトゥーラ・ソプラノ(エヴァ・メイ)に歌わせている」アーノンクールのDVD盤(1996年)への指摘は当を得ている。ただし、今回検討してきた第2幕・第14曲の三重唱で、伯爵夫人役の彼女が高いコロラトゥーラ・パッセージを歌ったのか?という点では、また別の事情が絡んでくる。

 というのも、ウィーン再演でスザンナ役を歌ったのは、モーツァルトの手紙に「フェッラレーゼ(フェッラレージ)」という名で登場するフランチェスカ・アドリアーナ・ガブリエーリというイタリア人歌手。モーツァルトの自筆作品目録には「フェッラレーゼ・デル・ベーネ夫人」と書かれている。「フェラーラ(イタリア北東部の都市)生まれの美人さん」みたいな意味だろうか。(5月13日の補注:彼女の名前の「デル・ベーネ」は、夫であるルイージ・デル・ベーネに由来することがわかった。『モーツァルトとダ・ポンテ ある出会いの記録』リヒャルト・ブレッチャッハー著・アルファベータ・刊 p.313)。ちなみに彼女はのちに『コシ・ファン・トゥッテ』でフィオルディリージを演じるだけあって、こちらも技巧派で良く声を転がすことができたことは間違いない。さらに、この再演にあたってモーツァルトは新たに2つのアリアを新スザンナ役の彼女のために書いていて、そのうちの1曲がまさにコロラトゥーラの技巧がちりばめられた華やかな曲になっているのが注目される。これは第4幕の第28曲「さあ早く来て、いとしい人」の代わりに歌われるロンド「あなたを愛する私の胸に K.577」。技巧の点では第14曲を遥かに超えている。ブッファというよりもオペラ・セリアで歌われそうな曲である。バセット・ホルンの伴奏がついているせいもあり、例えば『皇帝ティートの慈悲』のアリアに雰囲気が似ている。元曲に較べるとやや歌手好みの曲と言えるのだが、おそらくは「フェッラレーゼ」の要請により書き直したのだろう(彼女は『フィガロ』『コシ』等の台本作家であるダ・ポンテの愛人でもあった!)。実は、モーツァルトはあまり彼女の歌を評価していないふしもあり、新たに書いたもう1曲アリエッタ「喜びの思いが K.579」について、「彼女が素直に歌ってさえくれたら、喜ばれると思うけど、それがあやしいんだよなあ」とコンスタンツェへの手紙(17891989年8月19?日付け)に書いている。とはいえ、このロンドが歌えたということは、彼女もまたコロラトゥーラが得意であり、第14曲の三重唱でスザンナ役として!高いコロラトゥーラ・パッセージを歌うこともまったく問題がなかったと想像される。

 この「フェッラレーゼ」夫人は、17551955年頃の生まれ。先のカヴァリエーリより少し年上であるが33、34歳。若い二人の歌手の競演について、日頃、辛口の批評が多いツィンツェンドルフ伯爵も17891979年8月31日の日付を持つ日誌に「オペラへ行く。『フィガロの結婚』。カヴァリエリ嬢とフェッラレージ嬢の間の魅力的な二重唱」と書いている。また翌17901990年のウィーンでの公演時にも「オペラ『フィガロの結婚』に行く。二人の女性の二重唱、フェッラレージのためのロンドはずっと気に入っている」(同年5月7日付け)と書いている。ただその他の記録はないようで、結局、第2幕・第14曲の三重唱でどちらが高いパートそしてコロラトゥーラ声部を歌ったか決められないのが残念だ。

 さて最後に、ウィーン再演で「フェラレーゼ」の歌ったアリエッタ「喜びの思いが K.579」について少し触れてこの稿を終えよう。こちらは第2幕・第13曲、スザンナがケルビーノの服を着替えさせるときの短いが真珠のようなアリア「さあ、膝をついて」の台替曲と言われ新全集では「No.13a」とされている(第3幕冒頭に置かれたという説もある)。またこの曲には、作曲者自身のピアノ伴奏バージョンもあり、ときどき歌曲集などにも収録されている。「Zauberfloete 通信」にこのピアノ伴奏版の自筆譜ファクシミリが印刷されたマウスパッドをモーツァルトの生家の売店で買われたというお話が紹介されている。

http://zauberfloete.at.webry.info/201112/article_1.html

 ピアノ伴奏版では個人的にはバーバラ・ボニー(Teldec)の若々しい歌が忘れがたいが、今回、あらためて何人かの歌手を聴いてみて、管弦楽版ではあるがアバドの『フィガロ』全曲盤(DG)に付録として収録されているシルヴィア・マクネアーの歌唱がすばらしく気に入った。最初、グルヴェローヴァ等を聴いた耳には声の点でちょっとと思えるのだが、何度も聴き進むうちにこれはあえて<声を出さずに>大人が子どもに言い聞かせるように歌っているのだとわかる。そのあたりの微妙さを文章で伝えきれないのがもどかしいけれど。

(その1)へ、(その2)へ、(その3)

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コメント

cherubinoさま
いつも興味深く読ませていただいております。
アバドの「フィガロ」、私も持っている(全般的にはあまり感心しないものでしたが・・)のですが、この2曲が付録に入っていたことはすっかり忘れておりました。今、あらためて聴いてみたのですが、K579の、さりげなく、しなやかで繊細なマクネアの歌唱、私も大変素晴らしいと思いました。教えていただきありがとうございます。

投稿: Zauberfloete | 2012年5月 4日 (金) 21時03分

すみません、年代表記に?な箇所があるんですけど。
話は変わりますがフェラレージという名は、20世紀のヴァイオリン名手、アルド・フェラレージを連想させますね。

投稿: ひでくんママ | 2012年5月 5日 (土) 07時53分

Zauberfloete 様、ひでくんママ様、おはようございます。よい連休をお過ごしでしょうか? すみません。年代直しました。ご指摘ありがとうございます。
私はヴァイオリニストは詳しくないのですが、アルド・フェラレージ(ALDO FERRARESI;1902-1978)さんは、やはりフェラーラ(フェッラーラ)生まれのようです。「フェラーラ生まれのフェラーラっ子」。日本なら「京都生まれの京子さん」みたいな名前なんでしょうか。
http://www.cremona.u-net.com/aldo.htm
(ここにディスコグラフィもありました)。
YouTubeにあった「薔薇の騎士」のワルツを聴いてみましたが、甘い音色で、休日の音楽にはぴったりでした。
http://www.youtube.com/watch?v=X1j70_AvOq4&feature=relmfu
Zauberfloete さんには、マクネアーのK579をお褒めいただきありがとうございます。また、いつもこちらこそいろいろな示唆をいただき感謝しております。当方の勝手な夢ですが、いつかZauberfloete さんのモーツァルトの演奏法に関する貴重な記事(アポジャトゥーラや、ホルンのアルト奏法のお話など)、拙稿「モーツァルト探求」から少しまとまった論考にして、年鑑ブックレットかウェブ雑誌みたいなものを出せたらいいなと思っていました(日本の研究者たちがまったく触れず、しかしブログの中で日々消えて行くにはもったいない情報がたくさんあるので)。もちろんその中には、ひでくんママさんの(日本一個性的で、話題の展開の速い?)CD視聴記もぜったい必要です(モーツァルト質問箱も)。ということで(?)、今後ともよろしくお願いいたします。

投稿: cherubino | 2012年5月 5日 (土) 10時20分

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» モーツァルト:アリア「あなたを愛している人の望みどおり」K577 [Zauberfloete 通信]
来月の演奏会でモーツァルト:オペラ・アリア集を演奏する。そのうちの一曲、「フィガロ」終幕の第28曲(旧版では第27曲)レチタティーヴォとアリア「Giunse alfin il momento (やっとこの時が来たのね)」の次に、ベーレンライター版のパート譜ではNo.28a Rondo(Wiener Fassung 1789) という曲が付いている。ロンドという表示にやや当惑したが、この曲はコンサート・アリアK577として知られている名曲。 念のため、NMAのスコアを参照したがそのような曲...... [続きを読む]

受信: 2017年3月 3日 (金) 21時54分

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