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2019年8月31日 (土)

ベーレンライター版『英雄』の Solo 指定(その1)

 前々回の記事「モーツァルト・アラカルト(交響曲編・補足2)」のコメント欄で、ハイドンコレギウムの音楽監督兼常任指揮者である右近(大次郎)氏から、Ludwig Camerata ルートヴィヒ・カメラータの公式動画演奏をご紹介いただいた>>こちら。このルートヴィヒ・カメラータは、「2018年、桐朋学園大学の学生有志で結成された、指揮者のいない室内オーケストラ。」とのことで、上記動画はその2回目の定期公演のライヴ記録である。プログラムは、モーツァルトの交響曲第39番 K.543 およびベートーヴェンの交響曲第3番『英雄』op.55 という、どちらも変ホ長調の交響曲というユニークなもの。さらに演奏はそれ以上に興味深い。詳しくは、動画を見ていただきたいが、チェロ以外、全員が「立奏」スタイル。上記のとおり指揮者はおらず、コンサートミストレルが中央やや右!の位置に置かれた指揮台に立つ。これは、通常と反対の位置だと思いきや、実際に音楽が始まると、なんと第1ヴァイオリン群は右側、第2ヴァイオリンは左側で弾いていることがわかり、再度びっくり! 演奏自体も非常に速いテンポで、アグレッシヴな音楽を奏でている。この団体は「奏者たちがアクティヴな意見交換を重ね、たったひとつの音楽をつくりあげる。」というが、その成果が現れているところだろう。さらに楽譜の扱いもなかなかユニークだ。例えば『英雄』では、第4楽章の第2変奏部分がそう。この変奏は前半・後半の2つのセクションに分かれていて、それぞれにリピート記号が付いている。これを演奏すると「A1・A2・B1・B2」という形になるのだが、このうちA1部分を第1ヴァイオリン、第2ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロのソロで弾く。続くA2とB1部分は全メンバーで弾き、最後のB2部分はまたソロで弾かせる、という斬新な演奏を聴かせている。これについて、僕は先の記事のコメントで以下のように書いている。

「『英雄』の使用楽譜は、終楽章のT(59)60以下の弦の「Soli」の扱いなどをみるとベーレンライター版のように思えるのですが・・・ここは実際どう解釈したらいいのでしょうか? 僕個人はデル・マーの解釈を支持しますが、ソロと全奏で弾き分ける今回の演奏もなかなか魅力があるように聞きました。」

 ここはベーレンライター版の中でも、特徴的な箇所のひとつとして知られている。一般的な楽譜・演奏ではここを全弦セクションで弾かせるのだが、ベーレンライター版の編者のジョナサン・デル・マーは、ヴィオラ・パートの第59小節目の最後の拍(事実上の旋律は第60小節から始まる)、そしてチェロ・パートの第63小節という2箇所に、soli という表示を付けていた(※1)。実は、この点については僕もブログでも一度、触れたことがある>>「Soloとは一人で演奏すること?(その1)」2014。

「前世紀末にディビッド・ジンマンが「モダン楽器によるベーレンライター原典版世界初録音」という触れ込みで録音したベートーヴェン交響曲全集が、一世を風靡したことがあった。この中で交響曲第3番の終楽章の第59小節目以降の、弦のみで弾かれる美しい変奏を独奏アンサンブルで弾かせて、我々をあっと言わせたものだった。が、ここも実は「Soli」関係。「2ちゃんねる」でどなたかが「でも4楽章の弦楽器のソロはジンマンが根拠も無くやってるだけだろ?」と発言されたところ、すかさず!

「ベーレンライター版のヴィオラとチェロに「soli」
て書いてあるのをジンマンが勘違いしたため」

とコメントされた強者の方がいらっしゃった(2001年頃の話)。本当にジンマンが勘違いしたのか、あるいは確信犯なのかはここでは問わないが、ブライトコプフ版等では付いていなかった「soli」という指定を、ベーレンライター版の編者ジョナサン・デル・マーが採用したことに端を発していることは間違いない。

 このときも、そして先日のコメントを書いたときも、僕は自宅にあるベーレンライター版『英雄』の大型版総譜(BA 9003、初版 1997)を見て、そこに「soli」と書いてあるのを確認後、当該記事を書いている。また、同版の校訂報告書(Fourth Printing 2002)も再度見直し、そこに「それゆえ作品55では、両者の Solo マークは、(ブラームスやヨハン・シュトラウスといったより後の作品にさえも見つかるのだが、)全セクションを対象にした、結果として独自の突出したパッセージを意味する19世紀の一般的な慣習に属することを、むしろ表していると思われる。」というような注釈が書かれていることも再確認しておいた(※3)。

 いつものように前置きが長くなったが、ここでようやく本日の記事の本題。上のコメントで久しぶりにベーレンライター版を書架から取り出してきた僕は、少しいやな予感がしたので、この点につき再度調べてみる気になった。というのも、僕がよく参照する新モーツァルト全集でも、ベーレンライター社は注記もしないで誤植の訂正以上の変更をすることがよくあり、その話題はこのサイトでも何度も触れている(>>例えば、こちらの「リンツ」/あるいは、こちらの「プラハ」)。これはたまたまだが、今週末に所用で大阪に行く予定があったので、いつものように列車の待ち時間中にJR駅前のササヤ書房にダッシュ。最新のベーレンライター版『英雄』を確認してきた。すると、「やはり!」と言うべきだろうか。なんと上記箇所の楽譜が次のように書き換えられていたのだ(僕が店頭で見たのは大型総譜だが、紺色のスタディースコアの方を買ってきた。こちらには「Eleventh Printing 2017」という奥付がある)。

ヴィオラ・パートの第59小節目の最後の拍、そしてチェロ・パートの第63小節という2箇所に、Solo という表示。ヴィオラ・パートの第76小節目に〔Tutti〕、さらにチェロ・パートの第76小節に、Tutti という表示。 
脚注に、「当該エディションのより初期の印刷は、まぎらわしい表現をとっていたが、多分、ベートーヴェンは一人のソロ奏者を意図していた。」と注記。

 これは極めて重大な変更ではないだろうか。いうなれば、デル・マーは考えを正反対に改めたということになるのだから。前世紀末にベーレンライター版が出版されたとき大きな話題となったので、僕のように最初に出た大型楽譜を全冊揃えた方は多いのではと想像される。それがあてにならない場合もあるということである(泣)。

 以上、今回はベーレンライター版の新しい版に、修正・変更があるということだけで紙幅が尽きた。次回以降、資料的な確認も含め補足をしていきたいが、遺憾ながらこれまで僕の過去記事を読まれた方には、またも!訂正&お詫びをしなければならない。「ベーレンライター版『英雄』の終楽章第2変奏は、パートソロではなく、ソロ演奏を強く支持していました。申し訳ありません」。

※1 ここでデル・マーは、楽譜中には「soli」=「Solo」の複数形という指定を置くが、脚注で(複数の)資料では「Solo」とあることを注記。校訂報告への参照指示を置いている。
※2 このことはネット上でも複数の方が触れており、上記記事でも「Jurassic Page」という音楽関係サイトの記事を紹介させていただいた。>>こちら

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2019年8月27日 (火)

吉田秀和『カラヤン』

 すでに先月末のことになるが、河出文庫から吉田秀和氏の新刊『カラヤン』が出た。1963年から、かのマエストロが亡くなった年である1989年まで、よく目配りして文章を集めている。昨日、夕食後から就寝前にかけて断続的に読み出してはみたものの、吉田氏の文章を通じ、ブルックナーやマーラーの交響曲、プッチーニのオペラ、そして「パルジファル」等々、次々と聴き続けてきた名演が思い出され、頭の中が音楽でいっぱいになるような心持ちがした。こういう経験は、なかなかあるものではない。最終的に、バッハの曲を聴いて心を落ち着けなくては眠れなかったほどである。吉田氏の河出文庫のシリーズは、初め『マーラー』『フルトヴェングラー』が出て、今年『バッハ』『グレン・グールド』も相次いで刊行された。いずれも購入して読んでいるが、このようなことは初めてだ。「バッハ」の巻などはかなり期待して読み始めたのだが、リヒターやグールドなど古楽復興以前のものへの記述が多いこともあって、やや不満であった。それに比べ、カラヤンについては、全盛期の仕事を同時代的に追い、それに対応する吉田氏の文章も読んできたのであり、こちらの思い入れも随分と違うわけだが・・・。

 「カラヤンのモーツァルトで……」(「ステレオ」1972.7、『レコードのモーツァルト』等)「カラヤン --- ドビュッシー、ヴェルディ、マーラー」(レコード芸術別冊『カラヤン&ベルリン・フィル』1981)など、これまで何十回も読み返した懐かしい文章が並んでいる。再会した文章の中でも一番うれしかったのが、「カラヤンのベートーヴェン」と題された一文。これはこの本の中で最も初期=1963年に『芸術新潮』に発表されたもので、僕もリアルタイムには読んでいない。内容的には、カラヤンがベルリン・フィルと組んで1961~62年に録音したベートーヴェン交響曲全集を扱ったもので、当時のカラヤンの音楽的な立ち位置を、トスカニーニやフルトヴェングラーと比べ詳細に論じている。晩年の吉田氏の融通無碍な文章と比べると、幾分理屈が勝っている印象もないではないが、その当時、楽壇に飛躍しつつあったカラヤンのまっさらな「全集」を、紋切り型ではない表現で捉えようとした意欲的な評論であることは間違いない。

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 その中では、「今度のレコードでいう限り、『三番』が最もすぐれ、『六番』が最も異彩を放つ。ともに全く非凡なものである。」として評価している。特に、

「『第三』にみられるように、エモーションの領域に深入りするのを避けながら、感覚と自然と知性の次元から形而上的な次元に突入しているのは、全く新しいタイプといってよかろう。(p.106)」

という表現などは、誰のどの表現よりも(当時の)カラヤンの演奏の特徴を正確に言い表していると思う。ちなみに上記交響曲全集に含まれる第5番『運命』は、シューベルトの『未完成』交響曲と組み合わせて出ていて、小学生の頃、母が買ってきてくれて、自宅のステレオセットでそれこそ何百回も聴いた盤である。その後、学生時代にLPで第3番も買い、その演奏に魅了されていた。ちょうどその頃、『吉田秀和全集』(白水社・刊)の第4巻に再録されたこの文章を、僕は図書館で見つけ初めて読んだのだが、そのときの「この人の文章はすごい」と思った印象は今でもよく憶えている。今回、文庫版に収録されたのを機に、多くの方の目に触れるようになるのは、なによりだ。

 ちょうど今年4月には、1966年にカラヤンがベルリン・フィルと来日して、東京で行ったベートーヴェン・チクルスのライヴ録音が発売され、話題になった。上記セッション録音とはやや印象が違うものの、ライヴならではの迫力とヴィルトゥオーゾ的な感興にあふれた演奏はいかにも魅力的だ。ちょうど今夏、一夜の演奏会ごとにこのライヴ盤を聴いている。まだ第9番は聴いていないが、第1番交響曲の序奏から主部にかけての雄渾な表現や、第4番、第7番の終楽章の熱狂などを聴くにつけ、これはやはり一時代を築いた音楽家(たち)の貴重な記録であると思わざるを得ない。

 最後に、これまであまりカラヤンの録音を聴いたことがなかった人が、今、吉田氏の文章を読んで聴くとしたら、という想定で3枚の盤と本文庫の収録作を選んでみた。
1)ベートーヴェン「ミサ・ソレムニス」(EMI)/ベームとカラヤンのベートーヴェン《ミサ・ソレムニス》
2)ワーグナー「ラインの黄金」「ワルキューレ」(DG)/「オペラ指揮者としてのカラヤン」その他
3)ロストロボーヴィチとのドヴォルザーク/チェロ協奏曲(DG)/「新しくて古いロシア人」

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2019年8月18日 (日)

モーツァルト・アラカルト(交響曲編・補足2)

 最近、ずっとモーツァルトの変ホ長調交響曲(第39番K.543)について調べていたが、この曲については以前、序奏(アダージョ、2分の2拍子)のテンポについて記事にしたことがある(2015年)。当該記事「モーツァルト・アラカルト(交響曲編)」「モーツァルト・アラカルト(交響曲編・補足)」という記事を書いたときには気づいていなかったのだが、古楽器初の「モーツァルト:シンフォニー全集」を録音したクリストファー・ホグウッドが、少なくとも1988年以前に序奏と主部のテンポの関係性について発言していたことがわかった。実はこの件、数年前から気づいてはいたのだが、そのままにしておいたのでこの機会に補足しておきたい。

 その発言は、ポリドールから出ていた上記全集のCD版(F00L-29064/82、1988年発売)の日本語解説にあった。実は、それを読むだけのためにすでに外盤で持っている同全集を僕は中古で購入してしまったがw、このままではほとんど一般の方の目には触れないと思われるので、以下に引用しておく。文章自体の執筆を担当しているのは石井宏氏で、曲目解説等のあと、巻末に「モーツァルト革命 --- 真正モーツァルトの誕生」として収録されている。石井氏は、ホグウッドが来日した折に講演で述べたこととして、以下のように報告している。

「 さらにホグウッドはその講演の折、某大家の演奏したモーツァルトの第39番のシンフォニーの序奏から第一楽章の主部に入る部分を、レコードをかけながら、いかに誤っているかを例証して聞かせた。その一つは、たとえば専任指揮者のいない18世紀のオーケストラでは、やたらに途中でテンポを変えられないので、序奏のアダージョと主部のアレグロのテンポには関連がなければ弾けない。それではこのアダージョとアレグロとの間には、どんなテンポのつながりがあるのかといえば、アダージョの中の鮮やかな下降フレーズ〔譜例1〕と、主部に入って現われる全く同じ音から成るアレグロの下降フレーズ〔譜例2〕とが、同じ速さで弾かれるという約束になっているというわけである。従って アダージョの♪ (8分音符)= アレグロの♩ (4分音符)となり、アレグロはアダージョの2倍のテンポということになる。
 (譜例1:アダージョの32分音符12個の下降音型)(譜例2:アレグロの16分音符12個の下降音型)
 なるほど、この約束ごとさえ頭に入っていれば、楽員は指揮者なしでも、アダージョからアレグロにスムーズに入って行けるわけである。それに反して、アレグロがアダージョの1.8倍のテンポであったり、2.3倍であったりするような演奏は、たとえロマンティックではあっても、すでにして18世紀では考えられなかった演奏ということになる。
 以上の説は、今日まで書き記されて残っているものをホグウッドが発見したといった体のものではない。あくまで合理的な思索から発見されたものであろうが、証明の有無を超越して、万人に対して説得力を持っている。いわゆる”自明の理”である。こうした透徹した思考と、冒頭の解説の項で述べたような緻密な考証とが重なって、ホグウッドの演奏のベースができるわけである。」

 これは僕が上記2つの記事で参照させていただいた「Zauberfloete通信」(>>こちら)で、まったく独自に指摘されていたことと同じ内容である。ちなみに当時、僕はノリントン指揮ロンドン・クラシカル・プレイヤーの同曲CD(1991年録音)が、まさにアダージョとアレグロの下降音型の速度を揃えていると書いているが、「Zauberfloete通信」の元記事に最近寄せられた右近(大次郎)氏のコメントでは、「はい、序奏の下降音階と主部の下降音階が同じテンポ設定にするでビンゴだと思います。 /因みにノリントンも同じこと言ってました。 」とある。誰が最初という問題でなく、ここに挙げたそれぞれの方々が、それぞれの演奏実践の場で(同時多発的に)辿り着いた結論ということだろう。石井氏に言わせれば、それがまさに「自明の理」ということなのだが、僕も含め現代人の我々にはなかなか簡単にはそこに行き着けないのも事実である。

 記事の最後に、ホグウッド指揮アカデミー・オブ・エンシェント・ミュージックの演奏を聴いておこう。序奏・アダージョの4分音符の速度=60前後、主部・アレグロの付点2分音符の速度=46前後、ということで、前者/後者の速度比は「1.30」である。ノリントン盤(速度比「1.50」)ほどではないが、井上道義盤(速度比「1.36」)に近い。ただし、序奏・主部とも井上盤よりやや遅めなので、聴いていてあまりエキセントリックな感じはしない。ともあれ、実際の演奏実践では、今後この「1.30」前後の数字が増えてくるような気がする。

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