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2019年9月10日 (火)

バッハ・フロム・ベネズエラ

 昨晩、ベネズエラ出身でベルリン・フィルの若きコントラバス奏者、エディクソン・ルイースと、そのパートナー、ヴァイオリニストのヴェロニカ・エーベルレの二人をフィーチャリングした演奏会を聴いた。地元で毎年行われる国際音楽祭の一夜だが、この音楽祭は演奏家がコンサート・プロデューサーを務めているせいか?、例年、参集したアーティストたちの都合で曲目が決まっているのかのような「演奏家ファースト」のプログラミングが多い。が、今夜はそうではない。確かに全世界で活躍中の名手たちであり、当夜のコンサート・タイトルも「エーベルレ&ルイース/超絶のヴァイオリンとコントラバス」などという通俗的なものになってはいる。しかし、J.S.バッハの独奏曲を前半に置き、後半にはベネズエラゆかりの作曲家によるバッハにインスパイアーされたアンサンブル曲を持ってくるという他にはない構成が、まず異彩を放つ。ここでは、演奏家はあくまで音楽作品を紹介するという控え目な立場であり、そのためにすべての技術・鍛錬はあるのである。

 最初は、バッハの「無伴奏チェロ組曲」第1番ト長調 BWV 1007 を、ルイースがコントラバスで弾く。近年、無伴奏チェロ組曲をコントラバスで弾く例はそれほど珍しくはないが、実演で聴くのは初めて。ルイスは椅子等を使わず立ったまま、つまり長身を深くかがめ楽器に覆いかぶさるような態勢をとる。そして、ほとんど曲全体をコマに近い通常使わないようなハイポジション、つまりチェロと同等の高い音域で弾くわけで、難易度はかなり高めである。その上で、最初のプレリュードの分散和音からルバートを効かせ、まるで語るような演奏を聴かせる。直接的な影響というわけではないが、ちょっとチェロのビルスマを思わせるようなスタイルだ。旋律を朗々と歌わせるというより(そうしたいと思えば彼はできたはずだが)、アーティキュレーションや緩急に気を配った個性的なバッハ。自分がなぜこの楽器でバッハを弾くかという点につき、真摯に考察した結果だろう。

 2曲目は、エーベルレによる「無伴奏ヴァイオリン・パルティータ」第2番ニ短調 BWV1004。速めのテンポで、しかしレガートな部分とリズミックな部分の対比をはっきりつけて進むスタイリッシュなバッハだ。クーラントやジーグでの圧倒的に速い音符の流れは、左手の正確なフィンガリングと右手の自在な弓使いに裏打ちされている。最後のシャコンヌも決して粘らないが、打楽器的に響く重音など気迫は充分であり、即興的な側面にも欠けていない。いっしょに聴いていた細君が、休憩時に「ヴァイオリンの音がきれい」と言うので、帰宅後、調べてみたら、使用楽器は日本音楽財団から貸与されているストラディヴァリウス「ドラゴネッティ 1700」ということだった。個性的な低音と澄みきった高音はストラドの名に恥じないものだが、楽器の音を聴かせるというより、自分の音楽を聴かせるという意欲が勝っている点が、潔い。

 休憩を挟んだ3曲目は、ウルグアイに生まれベネズエラで育った作曲家、エフライン・オシェールの「パッサカリア、バッハによるパッサカリア ハ短調 BWV 582 に基づく」という曲の日本初演。ヴァイオリンとコントラバスという、通常はあまり聴くことない音高差によるデュオとなる。が、ここではまったく違和感なく響くどころか、完全に対等のパートナーとして二人は舞台上に立っている。バッハのパッサカリアの旋律は、最初はバスに出るが、その後はヴァイオリンに移ったり、南米の舞曲の中に潜んだり、自在に飛び交う。曲としてもそうなのだが、演奏としても前半のそれぞれが弾いたバッハのエコーが耳に残っている中で聴くことで、極めて重層的な音楽的感興を誘う(それは、プログラミング上の狙いでもある)。二人の演奏ぶりは、アーティキュレーションやデュナーミクの統一感が半端ではなく、まるでフィギュアスケートのベア競技を見ているかのような箇所もあった。まさに、このデュオのレーゾンデトール的な曲。

 最後は、先述の二人に葛西友子(パーカッション)が加わり、トリオ編成で、ベネズエラの作曲家、ゴンサーロ・グラウの「RUMBAch」(<<コンサートでの表示)が奏された。こちらは原題に「Suite "RumBach" for J.S.」あるとおり、バッハの組曲を模した6つの楽章からなり、それぞれがルンバなど舞曲のリズムで奏でられる。様々なジャンルの音楽が入り混じっているが、それこそが自由な精神の「組曲」になっている。演奏も実に見事なもので、細部に到るまですでに彼ら自身の音楽になっている。

 観客を置き去りにして「どこにも連れていかない」演奏会も多い中、当夜、彼らの主張は、実にはっきりとしている。「南米ベネズエラには、こんなバッハが今も生きている」・・・そして「バッハはどこにでもいる、あなたの中にも!」。

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2019年9月 8日 (日)

ロンド K371 の見つかった「60小節」(その3)

 少し間が空いたが、モーツァルトのホルンのためのロンド変ホ長調 K.371 について、追加でいくつかの論点を挙げる。というのも、通常、モーツァルトのホルン協奏曲は、ヨーゼフ・ロイトゲープ Joseph Leutgeb(モーツァルトは、「Leitgeb」と綴る)のために書かれたとされている。これは協奏曲の自筆譜中に「Leitgeb」の名が何度も書かれていることからわかるのだが、一方、K.371 の方はどうやらそうではなかったようだ。というのも、ロイトゲープ自身がこのロンド(と想定されている)曲について、後年、「まったく知らない」とモーツァルトの妻コンスタンツェに伝えていたことがわかっている(1800年5月31日付け、コンスタンツェからヨハン・アントーン・アンドレへの手紙から)。では、誰の演奏を想定して、書かれた曲だろうか。

 ちなみにこの曲の自筆譜には、(その1)の注でも触れたように「Vienne ce 21 de Mars 1781」、つまり1781年3月21日という日付をモーツァルトは書いている。モーツァルトがウィーンに到着したのは同月の16日朝なので、まさに着いてすぐの日付である。アブ・コスター(hr)、ブルーノ・ヴァイル指揮ターフェルムジーク「モーツァルト:ホルン協奏曲集」(Vivarte / Sony)における、ロバート・D.レヴィンのCD解説には、こうある。

「コロレード大司教の随行者のひとりとしてモーツァルトが1781年に行ったザルツブルクからヴィーンへの旅行中に(訳注1)、モーツァルトはホルン奏者のヤーコプ・アイゼン(1756-1796)に会ったようである。1781年3月に彼はアイゼンのために変ホ長調の2楽章の協奏曲を下書きした(訳注2)。」(「モーツァルトのホルン協奏曲」、1993)

 ここで、訳者のM氏がいつもながら饒舌な訳注をつけているのがおもしろい(>>拙稿「アントーン・シュタートラーは首席奏者ではなかったのか?(その1)」を参照)。訳注の1「正確に言えば、大司教一行はザルツブルクからヴィーンを訪問したが、《イドメネオ》上演のためにミュンヘンに滞在していたモーツァルト自身は、命令にしたがってミュンヘンから直行した。」という指摘は(特に必要とも思えないまでも)まだ普通。だが、訳注の2「文中に根拠が示されていないので、アイゼンと出会って彼のために書いた、というのはレヴィンの大胆な推定と考えられる。(後略)」という記述については、少し補足が必要なように思われる。というのも、このCD自体1993年の発売だったが、ヤーコプ・アイゼンのために書かれたという説自体は、その30年前、1963年には新モーツァルト全集で編者のフランツ・ギークリンクが提起していたものである。(同じCD解説書の自らの解説文で、新全集のこともギークリンクのことにも触れているにもかかわらず、)なぜそのことを一行も書かずに、レヴィンの説のように注記し、しかもこの後、否定的な文脈で紹介するのかは正直、不明だ。

 ギークリンクが新全集の序文で指摘、重視しているのは、上記コンスタンツェの手紙の続きに、以下のようなことが書かれている点である。

「アイセンあるいはアイゼンのようなお名前の未亡人、国立劇場のホルン奏者の未亡人が、ホルンのオリジナル・スコアをお持ちになっているに違いありません。ヴラニツキーが彼女を知っています。モーツァルト自身が彼女の夫にオリジナルの手稿譜を渡しました。」

 アイゼンは、クラリネットのシュタートラー兄弟とともに、ウィーンの「帝国王室吹奏楽団」の8名のメンバーの一人であることが知られているが、ここではさらにモーツァルトから楽譜=曲を贈られるほど親しかったということがわかる(※1)。ただここで公平性を期すなら、この一連の記述については別の見方もあることにも触れておきたい。例えば、この項の(その2)で紹介した野口秀夫氏の論文でも、

「ギークリングはこの手紙に基づきアイゼンが持っていたものと考えたのだが、よく読むとコンスタンツェは K.371 のオリジナルを既に持っており、それをロイトゲープに見せたところ知らない曲だと言われたのだと読める。しかもアイゼン夫人が持っている筈のものはホルン協奏曲ではなくて、単に「ホルンのオリジナル」だと書いてある。むしろこれは K.487 を指すと考えられる。また別の可能性として、コンスタンツェは確かにアイゼン夫人と面識がないが、モーツァルト自身が生前にアイゼンからオリジナルを返却されていたのではないかと指摘する向きがあるかもしれない。しかし、コンスタンツェの手紙のニュアンスではアイゼンは亡くなるまでモーツァルトのオリジナルを手元にきちんと保管していた人物のようである(モーツァルトに返却していないという意味)。ということでアイゼン説には大いに疑問がある。」「Wolfgang Amade? Mozart(その1)-手稿譜における署名の状況- ホルンと管弦楽のためのロンド変ホ長調K.371は誰のために書かれたか?」

 なるほどこれは一理あって、確かに上記コンスタンツェの手紙でも、ロイトゲープが知らないと証言した「ホルンとオーケストラのためのロンド」と、アイゼン夫人が(今も)所有する「ホルンのためのオリジナル・スコア(※2)」とは同一のものとは書いていない(K.371 の不完全な楽譜は、アイゼン夫人の手にはなくコンスタンツェがすでに持っているように読めるということ)。ただこのことは、K.371 のロンドがアイゼンのために書かれたという証拠にこそならないとはいえ、その逆の証拠にもなっていないのではないか。特に、楽譜を誰がどのように保管・管理しているかは多分に偶然によるものであって、アイゼンを「亡くなるまでモーツァルトのオリジナルを手元にきちんと保管していた人物」と決めつけるような考えは廃すべきだろう。

 なお、ギークリンクのアイゼン説の根拠としては、ほかに曲の内容・性格にも及んでいる。この点については、次回に。

※1 1783年刊のクラマーの「音楽雑誌 Magazin der Musik」による。詳細はこちらを参照)。
※2 野口氏の訳では訳出されていないが、原文は「Originalpartituren」つまりパート譜ではなく総譜である。

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2019年9月 1日 (日)

ベーレンライター版『英雄』の Solo 指定(その2)

 昨日の続き。では、いつものように『英雄』の Solo 指定に関して、なぜそういう一見奇妙な解釈が生じるかを見ていきたい。まずは、資料の状況から。『英雄』の自筆譜は残されていない。ただし、作曲者が関与した筆者譜がいくつかあり、それが主要な源泉資料となっている。終楽章の第2変奏(第59小節目の最後の拍以下)の Solo 指定がある資料について、デル・マー編纂のベーレンライター版の校訂報告(Fourth Printing 2002)には以下のものが挙げられている。

B:ウィーンの筆写譜(総譜、1804初め)
 ※T59 ヴィオラ:Viola Solo(ベートーヴェンの自筆)/T63 チェロ:V:C Solo(コピストの筆跡)。細かいことだが、新ブライトコプフ版の校訂報告によれば、チェロ欄の表示は「V.C. Solo」。
PX:ウィーンの筆写譜(パート譜)と P:ウィーン初版(パート譜、1806)
 ※「each Solo in PX,P」と記載があるが、PX のチェロ(バッソ)については、巻頭の「SOURCES」欄に楽譜なしとも記載がある。

 この資料状況だけをみれば、決して無視していいような指定ではないだろう(※1)。ただし、この「Solo」が本当に一人の奏者で弾く指定か、パート全員で弾くいわゆるパートソロの指定かについては、議論があるところだ(参考>>「Soloとは一人で演奏すること?(その1)」)。この項の(その1)で紹介したように、当初デル・マーはこれを「パートソロ」と見て、あえて「soli」=「Solo」の複数形という指示を、ベーレンライター版の(初版)楽譜に記したようだ(※2)。その理由として、彼は以下のように書いている。

「このこと(引用者注:ベートーヴェンが「パートソロ」を考えていただろうこと)は、(第76小節のバッソには足りているようだが、少なくともヴィオラのために)いかなる Tutti という指示も存在しないこと、そして第2ヴァイオリンに Solo というマークがないという事実によって、サポートされている。」
<<(以下は引用者補足)上記デル・マーの注釈中、チェロパート T76 については、それ以前の部分でコントラバスが休んでいたため、チェロ&コントラバス=バッソ・パートに戻るという意味でも、Tutti という表記がいるということも関係している。つまり、T63 の Solo 指定を受けたものとは一概に言えないということ。

 これは、ブライトコプフ新版(PB 5233、1999)を編纂したペーター・ハウシルトも同じような意見のようだ(※3)。彼は自身の原典版では、校訂報告でこの Solo 指定について触れてはいるが、本文の方ではこれを落としている。しかし、現在出ているベーレンライター版では、上記「soli」を「Solo」に訂正し、ヴィオラ・パートの第76小節目に〔Tutti〕、さらにチェロ・パートの第76小節に、Tutti という指示を置いたことは、(その1)で紹介したとおりである(※4)。なぜそうした訂正が生じたかについてのデル・マーの説明は、現在のところ僕には見つけられないでいる。もしかすると、校訂報告書も改訂されていてそこに説明があるかもしれないが、7千円程度するだけにさすがに買い変えていない。僕の所有する 「Fourth Printing 2002」以降の新しい版を持っておられる方がいらっしゃれば、ぜひ情報をお寄せください。

(2020年2月の付記)コメント欄に芝宮さんというオーケストラ関係者の方から、校訂報告書の新しい版(Sixth Printing 2017)では、デル・マーは当該箇所の Va および Vc について、やはりソロ=1人の奏者での演奏を支持している(つまり考えを改めた)という報告がありました。情報提供に感謝申し上げるとともに、ぜひ下記コメント欄の参照を読者の皆さんにお願いしたい。

※1 IMSLPに、最初にロンドンで出版された総譜(1809)のファクシミリがUPされていた。デル・マーによれば、作曲者に由来しない楽譜とのことだが、今回話題にしている「Solo」指定がこちらでも見られるので、参考までに該当箇所を以下に示す。

Eroica41
第4楽章第59小節目以下:ヴィオラへの Solo 指定

Eroica42
第4楽章第63小節目以下:チェロへの Solo 指定

Eroica43
第4楽章第76小節目以下:バッソへの Tutti 指定


※2 ハイドンなどの記譜の例では、「soli」という表記は2つのパートに分かれている場合に使われている。ここのヴィオラは、一部「分奏」箇所もあるものの1パートなので「Solo」で十分のはずだ。だが、「パートソロ」であることを強調するため、デル・マーはあえて複数形の「soli」を置いたのではないだろうか。
※3 ブライトコプフ新版の校訂報告は、ネットで閲覧できる。>>https://www.breitkopf.com/work/1031/symphonie-nr-3-es-dur-op-55
※4 ちなみに、近年出たもう一つの原典版に、ヘンレ社から出た新ベートーヴェン全集版(バティア・チャーギン校訂、2013)がある。こちらについてはスタディ・スコアを見てみたところ、ヴィオラ・パートの第59小節目に「Viola Solo」、チェロ・パートの第63小節目に「Vc Solo」という指示がある。ただし、後段の「Tutti」の指示はなく、スタディ・スコア版に付された校訂報告にはこの箇所に関する記事はなかった。なので決定的なことは言えないし、別にヘンレ版から出ている全集版(大型総譜、Beethoven Werke 1/2)には、もしかするとより詳しい校訂報告があるのかもしれない。

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