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2020年5月19日 (火)

モーツァルトはさいころ遊びをするか?(その3)

 この項の(その1)(その2)では、モーツァルトの「さいころ遊び」と言われている曲のうち、偽作 K.Anh.294d (K.Anh.C30.01) 、そして真作 K.516f をそれぞれ見てきた。これらは、偽作=さいころの目で作曲、真作=名前のアルファベットで作曲ということで、偶然性を取り入れている点では一見似ているように見えるが、作曲技法としては実はまったく違う内容を持っている。真作が名前のアルファベットと関係があることを世界で初めて発見した野口秀夫氏は、この曲の遊び方や評価について以下のように書いている。

「《音楽の遊び》K.516fは音楽としてどのように評価すべきなのだろうか。名前の長さは無制限であるから「組み合わせ」の計算が出来ず、可能な音楽は無限種類ある、と言っても良い程である。それならば、世界のモーツァルト・ファンが各々自分の名前を曲にして、モーツァルトと自分の合作の響きを評価してみること、それが、この曲の唯一の評価方法ではないだろうか。」(「音楽の遊び ハ長調 K.516fの演奏法と作曲の背景」。)

 偽作の方も再現不能なくらい多数の組み合わせが生じる点では同じ。にもかかわらず誰でも「モーツァルトらしい(?)」音楽を作曲できるというところに、「さいころ音楽」のおもしろさがある。だが・・・実はそこにはある<秘密><仕掛け>があったのである。そのあたりを、imslp で公開されているジムロック版(3拍子系)を例に見てみよう。

Table1
Table2

 プレーヤーはまず最初に、2つのさいころを振って、そのダイスの目の合計(2〜12)の数字を得る。それが「3+4=7」だったとしよう。次に上記画像の上の方にある<数字表>の「A」の縦列から「7」のコマを見て、そこから「152」というキー数字が得られる。それをさらに下の画像の<音楽表>にあてはめると、第1小節目にあてはまる譜面として「152」という数字のついた旋律断片に行き着く、という仕組みである。第2小節目も同じようにさいころを振って、今度は「B」の縦列を見る。第3小節目は「C」を見る・・・というように、同じことを16回繰り返すことで、16小節の曲ができあがるという仕組みになる。ここで注目してほしいのは、<音楽表>には11×16=176もの断片があるが、実際の作曲過程で選んでいるのは、その中の11個だけである。多様な旋律がアト・ランダムに並んでいるのでいかにも複雑に見えるが、むしろプレーヤーは「特定の旋律を選ばされている」というに等しいわけである。例えば、8番目と16小節目は、音楽に終止感が出るようにしなければならないため、番号も掲載位置もばらばらながら、ほとんど同じ旋律が置かれている。また、終始に至るまでのカデンツの進行も、事前に設計されている。さいころという偶然性の高いアイテムを使いながら、ある程度、それらしき音楽になるのは、あたり前だったのである。ちなみに愛媛大学のサイトには、このさいころ遊びのコントルダンス版を分析して、音楽教育(子どもたちの曲づくり)に活かしているという論文もある>>温故知新!新しい音楽づくり活動への試み 〜モーツァルトの「音楽のサイコロ遊び」を使って〜 ※。

 翻って、真作の方はどうだろう。上記、野口氏の提起する遊び方では、名前のアルファベットが使われることになる。それだけ!では、上の偽作の場合で見たような、プレーヤーに音楽の進行を半ば強制的に選ばせることは難しい。モーツァルト自身がそのような基本的なことに気づかないわけはなく、曲の始めと終わりを一定にしたのは一つの工夫だ。とはいえ、やはり名前の綴りの順番・長さのランダムさは如何ともし難い。また、そのことが自筆譜の表面と裏面の違いにも関係してくるように思える。K.516f に書かれた表面の「fanciS」の旋律を鍵盤で弾いてみたが、当然ながら人前で演奏に値するような曲にはほど遠い。これでは無理と判断したモーツァルトは、裏面の旋律断片に1と2の選択肢を用意してヴァリエーションを持たせた、とは考えられないだろうか。ただそこで作り直した「francisca」も、偽作で見たようなシステマチックな仕組み・構成には程遠い。そのため、結局、完成しているとは言えない状態で放り出された・・・。

 ただ、一つだけ言えるとしたら、この真作の方が、ある意味、曲の進行に意外性は出るだろう(偽作では、何度やっても似たような曲しかできない)。(その2)で見た論文で土田英三郎氏は「親しい者を前にして音楽の謎掛け遊びを作ったのかもしれない。」と指摘されていた。自分や家族、親しい友人たちに「Punkitititi」や「Natschibinitschibi」など奇妙キテレツなあだ名をつけて楽しんでいたモーツァルトである。自動作曲装置としての不完全さを逆手に取り、友人の名前のアルファベットを演奏してその支離滅裂さを笑う、というようなことは当然、考えついただろう。あるいは、先に奇妙な曲を演奏して、その作曲に使われた名前をあてさせる、とか。

 ちなみに個人的には、この K.516f の旋律断片をどう組み合わせると満足すべき曲になるかについて、その他の解釈法も考えられないのかとも思わないではない(どうも、モーツァルトが下段に書いた組み合わせ例に、我々は引っ張られ過ぎているのかもしれない)。例えば、各フレーズの1と2の区別をモーツァルトがどう考えていたかについても、再度検討が必要ではないだろうか。今回はここまでにするが、機会をみて引き続き考えてみたい。

※ この論文の分析によれば、この「サイコロ遊び」は、「楽曲は C-Dur で、第1~4小節は主和音と属和音、主和音のカデンツ、第5小節目はドッペルドミナント( 複属和音 )、 第7小節は主和音-複属和音、第8小節は属和音で半終止、あるいは G-Dur に転調する。第9小節目は G-Dur の属和音から始まり、第10小節は主和音、その後 下属和音、第 12小節で主和音を経て、第2拍で C-Dur の属和音に至り、C-Dur に回帰、第13、14小節は主和音、第 15小節の属和音を経て第16小節で終結する。」と説明できる。

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