冥土の近松が泣いている。
昨日、地元の文化センターで「文楽・松羽目会」による人形浄瑠璃公演があったので見てきた。演目は、地元浄瑠璃劇団による『八百屋お七 火の見櫓の段』が前座であって、文楽座技芸員によるおなじみの「人形の遣い方」説明、そのあと松羽目会による『冥土の飛脚』が演じられた。近松門左衛門の有名作だけに浄瑠璃でも歌舞伎でも見たことがある演目だが、上中下巻を通じてたっぷり演じられるとあって楽しみにしていたもの。今や大ベテランの域に入った桐竹紋寿師匠による梅川は、たぶん初めて見せていただいたが、実際、くっきりとした人物造詣は梅川にはよく合う。「今日は足がうまかった~」というのがいっしょに見た細君の評(笑。結構歩きのシーンや人形の移動が多い演目だし、実際うまかった!)。様々な伏線を張った上巻(淡路町の段~羽織落しの段)を経て、中巻のいわゆる「封印切」の見せ場にいたるまで、さすがに作品も作品だし、息もつかせぬ近松の世界を楽しんだ(一箇所、中巻の「浄瑠璃・三世相」の場面はカット)。
ところが下巻「新口村の段」に入り、まず「相合駕籠~道行」がない。それはいいとしても、故郷の知人・忠三郎宅でおかみさんが登場すると、「もし大坂の衆じやないか。こちの親方孫右衛門様の息子殿、大坂へ養子に行て、傾城とやらいふものをたんと買ふて、人の金を盗み、その傾城を手にさげて、走つたとやら滑つたとやらで、代官所からきつい詮議」といかにもちゃらちゃらした台詞まわし。このあとの忠兵衛の台詞でも、「アヽ同じ女郎を請け出しても、わしはそなたの親たちに憂目をかけるが口惜しいはいの(わいの)」と変な語尾をつけたりして、へたな田舎芝居かなにかにしか聞こえない。浄瑠璃節も、台詞部分と地の文とのあいだで、過分に説明的な節の切り替えがある。つまり下巻は、一転、『冥土の飛脚』の改作『傾城恋飛脚』を上演しているのである。そういうことって、あり?(もちろんちらしにも、当日配られたパンフレットにも、そのことは触れられていない)。
近松作品の上演にあたっては、改作はある意味あたり前の世界で、以前、仕事で人間国宝の吉田文雀氏にインタビューしたときも、「近松はんは、芝居の台本にしても、筆にまかせて書いているところがあって、『字余り、字足らず』のところが結構ある」、「一番難しい作者」とはっきりおっしゃられていた。確かにこの『傾城恋飛脚』にしても、よくやられるように「新口村の段」だけを単独で上演すれば、違和感が少ないのかもしれない。原作の結末はいかにもカライし、また原作にはない忠兵衛・孫右衛門親子の目隠しでの対面場面も、それだけ見れば悪いアイディアではないだろう。しかし、本公演のように近松の原作どおりの上・中巻に続けてこれを上演すると、いかにも変えられた文章の稚拙さ・通俗さだけが目立ってしまうのはいかんともしがたい。近松がこれを読んだらどう思うだろうと考えると、見ているこちらの方こそ<口惜しい>という心地である。「田舎の客」相手の地方公演だから、このようなことになるのだろうか。音楽だったら、ブルックナーの交響曲を第1~3楽章まで「原典版」で演奏し、終楽章を「シャルク改訂版」で演奏するようなものなのだが・・・
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