2016年1月 8日 (金)

エル・スール〜南へ

 連休前の夕刻、早めに帰宅したところ、アマゾンからビクトル・エリセ監督の映画『エル・スール』(1983年、スペイン=フランス)のブルーレイ盤が届いていたので、キッチンのテレビにブルーレイ録画機をつないで夕食のミネストローネを作りながら見た。もう四半世紀前に見た映画。レーザーディスク盤でも持っているのだが、せっかくブルーレイでリマスター盤が出たので買ったものである。スペイン内戦を背景に、心に深い闇を秘めた謎めいた父親(名優オメロ・アントヌッティ)とそのひとり娘(8歳と15歳時が描かれる)の物語で、光と闇の対比を効かせた映像の美しさもさることながら、この映画の深い感銘は音楽によるところも大きい。ラヴェルの「弦楽四重奏曲へ長調」、シューベルトの「弦楽五重奏曲ハ長調」、そしてグラナドスの「スペイン舞曲集」から第5曲の Andaluza が映画のタイトルにもある「エル・スール」・・・南へのあこがれを象徴する音楽として極めて印象的に使われている。ことさらに感動をあおろうと劇伴をうるさく流すハリウッド映画や日本映画と違い、良質なヨーロッパ映画ではほとんどバックに音楽を流さない。エリック・ロメールしかり、テオ・アンゲロプロスしかり。ただこのビクトル・エリセの『エル・スール』では、上記の Andaluza が映画の大事な要素になっていて、最早これなしでは成立し得ない。私などこれまでおそらく2、3回しかこの映画を見ていないにもかかわらず、CD等で Andaluza を聴くたびに映画の情景が自然と浮かんできて、せつなさとなつかしさが入り交じったような感覚がじんわり身体中を覆い尽くしていく感じがするほどだ。

 映画で流れる Andaluza の演奏については、タイトルバックにも演奏者の名前は流れない。映画のためのオリジナル音源なのかもしれないが、少し時代がかかった古いピアノをあえて使っているようだ。ホ長調の中間部を非常にゆっくりと弾いているのが印象的である。私自身いつもは、アリシア・デ・ラローチャのCD(デッカ)で聴くことが多い。本場物を弾く彼女ならではのリズム感もすばらしいし、タッチも非常に美しい。先年、アルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリの初期録音集にある古い演奏を聴いたら、緩急や音量の差を極限まで大きくとった個性的な演奏に思わずうならされたこともある。

 映画も、音楽も、「楽しみ・娯楽」と言ってしまえばそれまでだが、時にそれだけではない何かが私を捉えて離さない瞬間が訪れる場合がある。そして、そのときの感覚は、一生のあいだ片時も離れず、心の奥底で小さな灯りをともし続ける。

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2015年7月 7日 (火)

「天皇の料理番」の音楽

 TBS系テレビで放映中のドラマ『天皇の料理番』が、非常に好調のようだ。ふだんNHKの大河ドラマを除けばほとんどテレビ自体見ない私だ。だが今回は、主人公・秋山徳蔵氏※が私の生地(現所在地)にゆかりのある方で、昨年、細君が仕事で秋山氏関連の展示会に関わったということで、全回とは言わないまでも結構よく二人で見ている。ちなみに番組冒頭の主題歌には、エルガー作曲の行進曲『威風堂々』第1番が使われていて、これもネット上での視聴者の感想などを見るとなかなか好評みたいだ。先日は物語上のクライマックスの一つといえる「大正天皇即位の礼」の晩餐会の場面(大正4年)が描かれていた。一方、大正13年に行われた皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)の御婚儀に際し催された宮中晩餐会にて演奏された曲のリストが残っている。そこに実はこの『威風堂々』が、「正々堂々たる軍容行進曲」という名前で登場している。というわけで、秋山徳蔵氏の生涯を描くにあたり、あながち場違いな曲というわけではないようなのだ。

 その大正13年、西暦で言えば1924年の晩餐会で使われた音楽のプログラムは、松山の「坂の上の雲ミュージアム」に実物が残されている。ちなみにこの晩餐会の食事メニューの方は、東京港区高輪の「味の素食の文化センター」に収蔵されている。上記展示会の折に、そのメニューを再現し味わうイベントがあり、細君が晩餐会会場で流された音楽のさわりも紹介したいというので、「奏楽曲目表」に記された曲の解読を行ってみた。それで、『威風堂々』のことも頭に残っていたわけである。以下がその曲目。

 曲  目

1.結婚行進曲  独逸 メンデルスゾーン作

(いわずとしれた名曲、劇音楽『真夏の夜の夢』から。婚礼のお祝いの席だから当然だろう。)

2.祝典序楽  日本 芝 祐秦作

(芝祐秦=しば・すけひろ は著名な雅楽家で、のちに昭和天皇即位の礼でも神楽歌を奏したという。1898年生 - 1982年没。彼の著作には「五線譜による雅楽歌曲集」「雅楽通解」などがある。音源は調べたけれど見つけられなかった。)

3.歌劇「運命の力」序楽  伊太利 ヴェルディ作

(これもおなじみの序曲。音源も多数ある。)

4.a)ロマンス  芬蘭 シベリウス作
  b)メロディー  露西亜 ラフマニノフ作

(この2曲の特定はちょっとむずかしい。シベリウスには「ロマンス」と題した弦楽合奏の曲・ハ長調作品42があるが、これは曲調として非常に感傷的で、婚礼を祝う席に合わないように思える。ただし、もしこの曲が演奏されたのだとしたら、ラフマニノフの方は元来ピアノ独奏曲として書かれた作品3「幻想的小品集」の第3曲を、作曲者自身が管弦楽用に編曲したものが使われたのかもしれない(Naxosに交響曲第3番と組み合わせたCDがある)。一方、ラフマニノフの「メロディー」という曲で有名なのは、この作品3の第3曲のほかに、ハイフェッツのヴァイオリン編曲で知られる作品21「12の歌」の第9曲がある。この曲をヴァイオリン(もしくはチェロ)とピアノによる編曲で演奏したと考えるなら、シベリウスの方は作品24のピアノ曲集「10の小品」から第9曲ロマンス変ニ長調を選んだと考えられないか。これら2曲を、楽隊の休憩時間に合わせ、a)~b)のメドレーとして室内楽的に演奏したということも考えられるからである。)

5.歌劇「聖母ノ宝玉」  伊太利 ウォルフ・フェラーリ

(歌劇『マドンナの宝石』から有名な第1間奏曲が演奏されたのだろう。1911年=明治44年12月にベルリンで初演されたのだから、当時としては新しい現代曲として受け止められたのではないか。)

6.片影集  亜米利加 ハードレー作
  1.西班牙風   2.仏蘭西風
    3.伊太利風   4.亜米利加風
      5.埃及風     6.愛蘭風

(「ハードレー」は、Henry Kimball Hadley。1871生‐1937年没のアメリカの作曲家。Neil Butterworth著『Dictionary of American Classical Composers』によれば、1918年作曲のオーケストラ曲に作品77「Silhouettes」(シルエット)という組曲があるので、まさに新曲になるがそれを演奏したと推定される。5曲ある交響曲の内、第4番「北東南西」に録音(Naxos)があるし、他にも若干録音があるようだが、残念ながらこの組曲の音源は見つけられなかった。ただし、IMSLPに第3、4曲の楽譜がある。)

7.美景  仏蘭西 マスネー作
  3.告鐘   4.ボヘミアノ祭

(マスネ作曲の「絵のような風景(オーケストラ組曲第4番)」から、第3曲「夕べの鐘」および第5曲「ジプシーの祭り」。エラートにガーディナー指揮の2枚組がある。)

8.正々堂々たる軍容行進曲  英吉利 エルガー作

(4曲ある行進曲から、一番有名な「威風堂々」第1番ニ長調が選ばれたと思われる。これも録音は多数。)

宮内省楽部管弦楽
指揮者 クリエルモ・ヅブラウィッチ
大正十三年五月三十一日

(「クリエルモ・ヅブラウィッチ」はオーストリアの音楽家で、当時、日本に音楽教師として来ていた人。加藤詔士氏(愛知大学法学部教授)の論文「お雇い教師の歴史像をめぐる考察」に、「W.G.ドヴォラヴィッチ(Wilhelm Guglieelmo Dubravcich, 1869-1925) 音楽(東京音楽学校:バイオリン)「1902年オーストリア公使であった牧野伸顕の推薦により来日し, 宮内省御雇い教師に就任した。まだ未熟であったわが国の洋楽の発展のために多大の貢献を果たした。」とある。http://taweb.aichi-u.ac.jp/kyosyoku/pdf02/work201302.pdf)

※ドラマの主人公の名は「篤蔵」と変えられている。番組HPによれば「物語の細部はフィクションであるため、ドラマの主人公の名前は秋山篤蔵である」とのこと。

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2015年6月22日 (月)

アーノンクールの新しい『フィガロ』

 ニコラウス・アーノンクールがモーツァルト作曲の4幕のオペラ・ブッファ『フィガロの結婚』K.492を振った新しい映像をCS放送で見た。といっても、まだ前半しか見てないのだが・・・。彼の『フィガロ』については、以前、このオペラの序曲についてその拍子記号を調べた折に、まとめて聴いたことがある(「『フィガロ』序曲はアラ・ブレーヴェか?(その2)」)。

http://gospels.cocolog-nifty.com/classic/2012/02/post-5003.html

 このうち、2006年のザルツブルク音楽祭ライヴ(ネトレプコのスザンナ!)については、僕は『フィガロ』のベスト盤(映像)として挙げたことがあるくらいで、今もその思いは変わらない。

http://gospels.cocolog-nifty.com/classic/2009/11/post-de4c.html

 ところで今回の演奏は、2014年の3月6日にアン・デア・ウィーン劇場で収録されたもの。同劇場の新制作演目であった『コジ・ファン・トゥッテ』にあたって演出家が降板騒ぎを起こし、結果、アーノンクールはなんと演奏会形式でダ・ポンテ三部作を一挙上演するという決断に至ったのだという。しかも、オーケストラ・ピットに入ったのは、アーノンクールと、彼の長年の盟友ウィーン・コンツェントゥス・ムジクス(古楽器使用)。これまでの録音では、奏法はともかく現代楽器使用のオーケストラを使っていたので、これは期待が大きい。で、注目の序曲演奏だが、ここでは彼の過去の演奏以上にゆっくりとしたテンポを採用しており、5分10秒ちょっとかかっている(最遅で知られるクレンペラーとほぼ同じ!)。これは明らかにアラ・ブレーヴェ&プレストの音楽ではない。ただし意図して音を割ったナチュラル・ホルンの咆哮、ケトル・ドラムの硬い乾いた音色など、古楽器群の威力はめざましく、決して弛緩した印象はない(ちなみにヴァイオリンのパートには頭髪が真っ白になったご高齢の女性が座っているが、これはアーノンクールに長く連れ添っているアリス夫人だろう)。

 さて本編に入ると、確かに演奏会形式とあって舞台装置はなく、譜面台がいつも舞台に出たままだ。だが、相応の演技はついている。例えば、スザンナとマルチェリーナがお互いをあてこすりあう第1幕のデュエットでは、二人はその譜面台をあえて向かい合うように置き直し、対決の姿勢を<見せる>。そして、それを見た会場からも笑いがもれる、という具合で、演奏会形式の制約を逆手にとって、意外におもしろい演出になっている。また、たいていの歌手たちはおおむね楽譜が頭に入っている様子で、ずっと音符を追っているようでもない。基本的に彼ら彼女らは観客にすべてを伝えようとしていて、まるで俳優のように語りかけてくる。いや、語るように歌っている、と言うべきか。音楽の長調と短調が交代する部分や、大事なセリフが歌われるときは、音楽の流れが止まることも辞さずに大きなルバート、パウゼで強調する。あるいは、<叫ぶ>。レチタティーヴォでは、音高がない<語り>のような部分が頻出し、これも劇に大いに貢献している。エリーザベト・クールマン演じるケルビーノは、このレチタティーヴォで地声のような低い声と、裏声のような高い声を器用に交錯させ、分裂気味の性格を露わにしたりもする。おかげで聴きなれた曲が絶えず新鮮に耳に響く。しかしここでの本当の主役は、オーケストラだろう。人数は30人を少し超えたくらいだろうか。テンポも序曲と同じく非常にゆったりで、舞台の前に陣取った器楽奏者たちは、歌手たちとともに心ゆくまで歌い、おしゃべりし、時に叫び・・・伴奏以上の役割を果たす。まるで、「歌詞の意味は、すべてモーツァルトの書いた音符の方に書かれているのですよ!」とでも言いたげな様子で。

 個々の歌手については簡単に書くしかない。伯爵役のボー・スコウフスはザルツブルクでの上演に続く登板で、こちらは完全に暗譜で歌っている。表現力は随一。一方、その夫人であるロジーナを歌うのは、なんとザルツブルクではケルビーノ役だったクリスティーネ・シェーファーだ。さすがにこれは慣れていない役と見え、ずっと楽譜を手にしている。結果、少し控え目な、初々しいロジーナになっている。この大物二人のほかは、若手中心の新鮮な布陣だ。前出のクルマンは売り出し中とあって、2つのアリアで大きな拍手をもらっている。クルマンと、スザンナ役のマリ・エリクスメンが歌う第二幕の逃走のデュエットは超絶的な遅さだが、途中から見ていた細君が「この二人、うまいんじゃない?」と聞いてきたほどすばらしい。おそらくこのプロジェクトの白眉。ちなみに歌手たちが着ている統一感のまったくないステージ衣装は、それゆえ一見すると自前のようにも見える。だが、装置&衣裳担当がいるところを見ると、これもそれぞれ不釣り合い見えるようなものをあえて選んでいるのだろう。今回、一番僕がびっくりしたのは、歌手たちのアリアの後、盛大な拍手が続き音楽が止まっているあいだ、かのアーノンクールが満足げにうなずき、笑顔まで見せているということ。自分の盟友たちとともに、自分のやりたい音楽をやりたいだけできる喜びが、彼の表情から伝わってくるようだ。そのアーノンクールの顔を見つめる歌手たちのはにかむような笑顔が、またいい。こちらもそれらを見ることができただけで十分満足な気分になったので、視聴途中だけどご紹介することにしたという次第。なお配役等は、以下のとおり。

[出演]
アンドレ・シューエン(フィガロ)
マリ・エリクスメン(スザンナ)
ボー・スコウフス(アルマヴィーヴァ伯爵)
クリスティーネ・シェーファー(伯爵夫人)
エリーザベト・クールマン(ケルビーノ)
ペーター・カールマン(バルトロ、アントニオ)
イルディコ・ライモンディ(マルチェリーナ)
マウロ・ペーター(バジリオ、ドン・クルツィオ)
クリスティーナ・ガンシュ(バルバリーナ)

[演出&映像監督]フェリックス・ブライザッハ
[装置&衣裳]ドリス・マリア・アイクナー
[指揮]ニコラウス・アーノンクール
[演奏]ウィーン・コンツェントゥス・ムジクス、アルノルト・シェーンベルク合唱団
[合唱指揮]エルヴィン・オルトナー

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2012年11月 6日 (火)

西川尚生氏の『リンツ』研究(その1)

 先週末の『ららら♪クラシック(NHK・Eテレ)』は、モーツァルトの「レクイエム」特集。実は『N響アワー』から編成替えになって初めて見た。なぜならモーツァルト研究家の西川尚生(ひさお)さんが解説だったから。随分前になるが、このブログでも西川さんが書かれた「作曲家◎人と作品」シリーズ『モーツァルト』(音楽之友社・刊)を紹介したことがあり、その後の研究も含め個人的に注目していた方である。http://gospels.cocolog-nifty.com/classic/2006/12/post_28c7.html

 さて、実際はどうであったか。番組内で語られたことを簡単にまとめると、こうなる。フリーランスになってウィーンに出、オペラや協奏曲等を書き5年間ほどは売れっ子であったモーツァルトが、後年、社会情勢の変化もあって演奏会は激減、生活も苦境に陥る。そこで新たな生きる道として少青年期に慣れ親しんだ教会音楽に目を向け、新旧の音楽素材・技法を駆使して「レクイエム」に取り組んだ。したがって、この曲はこれまで言われてきたような夭折の天才作曲家が最後の力を振りしぼって書いた「白鳥の歌」などではない・・・というもの。無論、細かく見ていくといろいろ突っ込みどころはある。しかし全体の論旨の流れとしては、極めて説得力のある指摘を西川氏はしていたように思う。特にこの曲の中に、ヘンデルやW.Fr.バッハ等の作品と非常によく似た箇所があることは番組内でも語られていて、それは教会音楽というものの本質にも関わることだろう。つまりこの曲には、教会音楽の長い伝統と、モーツァルトの個性という革新性が分かちがたく同居しているわけである。この点に関し、モーツァルトの筆跡研究で知られるヴォルフガンング・プラート博士が、かつてこう言っていたのを思い出す。

 我々は、モーツァルトの《レクイエム》をモーツァルトの最後の作品として見ることに慣れている。私はこの習慣に、ちょっと異議を唱えたい。むしろ《レクイエム》は、モーツァルトの最初の作品ととらえるべきではないかと思う。新しいジャンルにおける、モーツァルトの最初の作品としてである。(『1991国際モーツァルト・シンポジウム報告 モーツァルト研究の現在』国立音楽大学・刊)

 このことを同じNHKの『プロジェクトX』風に言うならば、モーツァルトは構造的な不況の中、「レクイエム」の作曲という顧客からの依頼を契機に、自らの輝かしい業績をいったん捨て、起死回生を狙い教会音楽という陳腐化された領域において「異業種開拓」「イノベーション」に取り組んだ・・・ということなのだろう。加えて言うならば、もし僕が司会担当でもあったならば最後にこうコメントしただろう。

「自らの『イノベーション』を賭けた再起の曲が、結局、自らの最後の曲=自分への『鎮魂歌』になってしまう。そこに彼の悲劇・宿命を感じざるを得ません。生来の<天才起業家>モーツァルトは、まさに不世出、二人はいなかったということでしょうか・・・」

 さて前置きのつもりで書いていたが、思わず長くなってしまった。表題の交響曲ハ長調『リンツ』K.425についてだが、実は上の西川尚生氏は、ヨーロッパで随分と文献発掘をされており、2001年、グラーツの「ラノワ・コレクション」の中に、これまで未知であった『リンツ』のパート譜(筆写譜)を発見している。実はこの交響曲には自筆譜が発見されておらず、これまでは下記の2つが主要な原泉資料になっていた。

A) ドナウエッシンゲンのフェルステンベルク侯宮廷図書館所蔵のパート譜の筆写譜(1786年、モーツァルトが侯爵に売却したもの)
B) ザルツブルク・モーツァルテウム国際財団所蔵のパート譜の筆写譜(1784年、ザルツブルクでの上演に際し父レオポルトの監修で作られたもの)

 新モーツァルト全集は主に<資料A>を元に校訂されている(フリードリヒ・シュナップ担当)。ただし大著『モーツァルトのシンフォニー』(東京書籍・刊)の中で著者ニール・ザスラウ氏は、クリフ・アイゼン氏の研究を踏まえ、むしろ<資料B>の方を自筆譜から直接写されたものとして高く評価している(原著の発行は1989年)。この二人によれば、<資料A>はこの交響曲の改訂版(セカンド・バージョン)として位置づけるべきとの考えである。後にアイゼン氏は、ペータース社から『リンツ』の新校訂版を出版(1992年)しており、実際こちらでは主に<資料B>を使って校訂されているという。そして、ここに西川氏の発見したパート譜が加わったわけだが、当の西川氏はこの楽譜について、「モーツァルトが晩年まで所有し、自分の演奏会でおそらく使った演奏会用パート譜であるが、そこにはドナウエッシンゲンの楽譜内容(アイゼンが改訂されたと主張する音符)がほとんど反映されていない」として上記の改訂説をまったく退けるという大胆な意見を、上記『モーツァルト』にさらっと書いている(P.226)。この項では、以後この西川説を紹介しながら、K.425 の楽譜について考えてみたい。

※この K.425 に関していくつか文献を集めていたら、西川氏とは直接関係がないものの、ちょうど Zauberfloete さんがご自身のブログで「『リンツ』のエディション」という記事を書かれていた。http://zauberfloete.at.webry.info/201210/article_20.html こちらでは新旧全集の楽譜について興味深い比較がなされている。
また「ホルン吹きTadas」さんのHPにも『モーツァルトの「リンツ」:使用楽譜と演奏について』という記事があり、新旧全集楽譜や演奏の比較がある。http://www.hi-ho.ne.jp/tadasu/linz.htm

(その1)へ、(その2)へ、(その3)へ、(補遺1)へ、(補遺2)

※※その後、現在、濃紺の表紙で出版されている「新モーツァルト全集」のスタディー・スコアは、<校訂報告>を反映した新全集改訂版と言えるものに変わっていた。それについての詳細は、(総まとめ1)(総まとめ2)(総まとめ3)へ。

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2011年1月 8日 (土)

「リゴレット・イン・マントヴァ」放映

 本日の深夜、前に書いたマントヴァの街でドミンゴがリゴレットを歌い、世界同時中継された再現オペラが、NHK-BSで放映される。以下は、番組「プレミアムシアター」のHPから。

◇(午後11時50分~)ライヴ・フィルム・プロジェクト2010 「リゴレット・イン・マントヴァ」(ヴェルディ)
<曲目>
歌劇「リゴレット」(全3幕)(ヴェルディ)
<出演>
【リゴレット(マントヴァ公付きの道化役)】プラシド・ドミンゴ
【ジルダ(リゴレットの娘)】ユーリア・ノヴィコヴァ
【マントヴァ公爵】ヴィットリオ・グリゴーロ
【マッダレーナ(スパラフチレの妹)】ニーノ・スルグラジェ
【スパラフチレ(刺客)】ルッジェーロ・ライモンディ
【ジョヴァンナ(ジルダのうば)】カテリーナ・ディ・トンノ
【モンテローネ伯爵】ジャンフランコ・モントレゾール
【マルーロ(延臣)】ジョルジョ・カオドゥーロ
【ボルサ(延臣)】レオナルド・コルテルラッツィ
【チェプラーノ伯爵】ジョルジョ・ガッティ
【チェプラーノ伯爵夫人】カッサンドラ・ディモプル
【公爵夫人の小姓】マリアム・バッティステルリ

<管弦楽>イタリア国立放送交響楽団
<合唱>ソリスティ・カントーリ合唱団
<指揮>ズービン・メータ
<監督>マルコ・ベロッキオ
<撮影>ヴィットリオ・ストラーロ

<字幕>小瀬村幸子、多田茂史

収録:2010年9月4・5日
マントヴァ市内各所(イタリア)

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2009年1月30日 (金)

歌舞伎の国・日本

 NHK教育テレビの「芸術劇場」で、近松門左衛門原作の歌舞伎「嫗(こもち)山姥(やまんば)(八重桐廓噺)」を妻とふたりで見た。我々は、以前、鴈治郎(現坂田藤十郎)さんの八重桐(近松座公演)を一度見ている。記憶では、当時、すでに古希に近かったと思うが、年齢を感じさせない貫禄・迫力の舞台に圧倒された思い出がある。今回、しゃべりに、踊りに、立ち回りにと大活躍の荻野屋八重桐を演じるのは、中村時蔵さん。クレジットは見損なったが、多分、昨年11月の「吉例顔見世大歌舞伎(東京・歌舞伎座)」の録画であろう。この作品は、三代目(現時蔵の祖父)の時代から受け継がれたいわゆる<お家芸>。長男の梅枝(沢瀉姫)、一門の中村歌昇(腰元お歌)、錦之助(太田十郎)らも出演し、さすがに練り上げられた舞台作りで楽しめた。

 この作品は、いわゆる元傾城の女主人公による「しゃべり」の場面が有名で、もともとは同じく近松作の『傾城仏の原』で初代藤十郎が演じた長台詞を、浄瑠璃に応用したものだと言われている。それをまた歌舞伎に戻して演じているわけで、由来としてはかなりややこしい。しかも現歌舞伎の演出では、その「しゃべり」を役者(時蔵)の台詞と、太夫が語る浄瑠璃とで交互につないでいくので、『傾城仏の原』で見られる長台詞とはちょっと趣きが違うものになっている。太夫が語っているときは、役者は黙って言葉にあった振りをしたり、立って舞踊をしたりとかえって忙しい。しかも両者のつなぎの部分は、一連の台詞の思いっきり途中だったりするので、相手から言葉を引き取るきっかけをつかむのは結構難しい(今回は、伴奏の三味線がうまくそのきっかけを出していたように思う)。その意味では、オペラの重唱部分のアンサンブルに近いことを全体ではやっていることになる。

 この後は、悪玉の親分と子分多数が登場して、大立ち回りが繰り広げられる。殺陣あり、新体操のような全員での宙返りあり、早変わりありと、鳴りものにあわせてにぎやかに進行していく。久しぶりに見る歌舞伎の舞台だが、こういうときこそ、まさに心から思える。「ああ、日本に生まれてよかったなあ・・・」と。

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2009年1月 4日 (日)

日曜日のモーツァルト

 毎日曜日の朝、テレビ朝日系で放映されている「サンデープロジェクト」は、僕の休日の朝の目覚まし番組だが、そのCMに昨年からモーツァルトのアリアが流れるようになったのをご存知だろうか。曲は『フィガロの結婚』からケルビーノが第2幕で歌う有名なカンツォーナ「恋とはどんなものかしら」。新進のオペラ歌手・林美智子さんがだだっぴろいオフィスの中に立ち、一番の始めの部分をまるまる歌っているから、かなり目立つ。というより、たいしたことはなにもしていないのにもかかわらず、モーツァルトの音楽のおかげで、突然、その場の空気がすーっと変わるくらいすがすがしいCMになっている。

 もっとも歌詞の方はまったくの替え歌で、「オーフィスのデーザインは、オーフィスせえっけーい、オーフィスかーぐ、なーいそうひっこしー、オフィスのことなら、オーフィスせえっけーい」という極めて直截的なもの(その歌詞のとおり、提供は「株式会社オフィス設計」というオフィス専門の設計施工会社)。ちなみにこの会社のホームページ(http://www.officesekkei.com/)からは、このCM=「オペラ偏(?)」を視聴できるようになっているが、今日現在、これはファイルのリンク貼りが間違っており、クリックすると同じ会社のCMでもまったく違うバージョンが流れてくる。※と昨日書いたが、よく調べてみたら、これは僕のWeb環境がMacintosh & Safariだからこうなるらしい。IEならちゃんと見れました。ごめんなさい!※(担当者の方、せっかく紹介したのですから、<あまり特殊なことはせず、Safariでも見えるように>早く直してくださ〜い)。このサイトによれば、林美智子さんは、

03年アテネでの「国際ミトロプーロス声楽コンクール2003」最高位入賞。早くからその存在は注目を集め、02年二期会『フィガロの結婚』ケルビーノで鮮烈にデビュー。同役は06年の再演、07年新国立劇場公演でも演じ、当り役としての評価を決定付ける。

というプロフィールの持ち主。昨年、ビクターエンタテインメントから『「地球はマルイぜ」~武満徹:SONGS〜』 というセカンドCDも出されたそうで、これはちょっと聴いてみたいかな。

 ちなみにモーツァルトのこの曲、CMで流れた例としては、料理番組『キューピー3分クッキング』のオープニングテーマの方がずっと早く、僕が学生の頃から長年使われていた。もっとも同番組のテーマとして有名なのは、「タタタッタッタッタッタ!タタタッタッタッタッタ!」という印象的な始まりを持つ「おもちゃの兵隊のマーチ (作曲:イェッセル)」の方だが、モーツァルトを使っていたのは、名古屋のCBC製作バージョンだそうである。『キューピー3分クッキング with Classics』というシリーズも発売されているくらいだから、興味のある方はどうぞ(Amazonのサイトでは、「おもちゃの兵隊のマーチ」のテーマ部分がまるまる視聴できますよ)。

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2008年1月 6日 (日)

『2001年』サントラの旅

 お正月休みに、スタンリー・キューブリック監督の往年のSF映画『2001年宇宙の旅』(1968年、MGM)を、実に25年ぶりくらいに見た。この映画は、リゲティの「アトモスフェール」「レクイエム」やヨハン・シュトラウスの「美しき青きドナウ」など、クラシック音楽が効果的にサウンドトラックに使われた映画としても有名だ。カラヤン指揮ベルリン・フィル演奏の優美なワルツに乗って、宇宙ステーションが回っているシーンなど、今見ても映画史に残る名シーンの一つだと思う。が、この映画を見た人に最も印象的に残った音楽は、オープニング・クレジットにおける「宇宙の日の出」シーンに使われた、リヒャルト・シュトラウスの「ツァラトゥストラはかく語りき」の序奏=ファンファーレであることは間違いのないところだろう(この後、映画の重要な場面で2回、つまり計3回、同じ音楽が使われる)。

 しかし、この「ツァラトゥストラ」の使用には、当初からひとつのミステリーがあった。確かに映画のエンド・タイトルで使用音楽紹介がある場所には、その最後に「MUSIC BY/RICHARD STRAUSS/THUS SPOKE ZARATHUSTRA」という具合に作曲者および曲名が挙げられている。だがしかし、なぜかよりによって映画のテーマ曲ともいうべきこの曲だけには、パフォーマーのクレジットがなかったのである。これは現在、市販されているDVD等でも同じなので、興味のある方は確認してみてほしい。

 一方、この映画のサウンドトラック盤も当時、LPで出された。当然のことながら、そこに「ツァラトゥストラ」の曲(冒頭のみ)も入っていた。それは「カール・ベーム指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団」の市販LPから取られた演奏であった(録音は1958年。レーベル名は、ドイツ・グラモフォン)。でも実は、このベームの演奏は、実際の『2001年』の映画の中で使われたものではなかったのである。映像ソフトのサウンドトラックと較べてみよう。1分40秒ほどの短い部分なので、なかなかわかりづらいかもしれないが、一番はっきり違う箇所は、次の箇所だろう。まずベーム盤では、ごく始めの部分、ちょうどトランペットが「ドーソードー」と上昇していくファンファーレを奏する直前(0:15)で、曲頭から鳴っていた低いC音が一瞬途切れる(楽譜は、オルガン等は鳴り続ける指定だが、コントラファゴットだけは、ここでタイが切れている。そのせいか?)。また、序奏の最後で、ベーム盤はいったん音量を下げ、その後かなり急速にクレッシェンドをかける(楽譜にデクレッシェンド+クレッシェンドという指定があるのを強調している)。全体的に言っても、映画のサウンドトラックの方が、ずっと滑らかな演奏である。

 結論から言えば、この演奏、先に書いた「ブルー・ドナウ」と同じく、カラヤンの演奏(1959年録音、オーケストラはウィーン・フィル)だったのである。2005年にようやく山崎浩太郎氏による邦訳が出されたデッカの名プロデューサー、ジョン・カルショウの自伝『レコードはまっすぐに』(なかなかいいタイトルである)によれば、「デッカがキューブリックにテープの使用許可を与えるにあたり、デッカやカラヤンの名前を出さないのを条件にした(p.282)」という。とはいえ、MGMがサントラ盤を出すにあたって、最も重要なタイトルであるこの曲を抜かす訳にはいかず、やむを得ずDGのベーム指揮の演奏を採録した、というのがどうやらことの真相のようである。にもかかわらず、サントラ盤でベームの演奏が聴ける以上、映画で使われたのが別の演奏だとは誰も思わないのが普通だろう。第一、当時はビデオもDVDもなかったわけだから、一般人には確かめようにも確かめるすべさえなかっただろうから。実際、今でも『2001年』の映画には、ベームの演奏が使われているという「伝説」がまかりとおっていて、今月終わりにユニバーサルからカラヤンのデッカ・レコーディングの内、コンサート物を集大成した9枚組のボックスCDが発売されるにあたり、HMVのスタッフさんが、

ちなみにCD-9に収録されている『ツァラトゥストラはかく語りき』は、スタンリー・キューブリック監督の名作『2001年宇宙の旅』のサウンドトラックに用いられた演奏。(http://www.hmv.co.jp/product/detail/2675312)

という親切な注釈をつけたところ、真面目なユーザーの方から「ツァラトゥストラはかく語りきのサウンドトラックはカールベーム指揮ベルリンフィルハーモニー管弦楽団です。」というコメントがすぐさま!つけられたくらいである。ちなみに、2006年に再発されたベームの同曲CDの帯には、いまだに「映画『2001年宇宙の旅』のサントラ盤にも使用された《ツァラトゥストラ》の決定盤!」というコピーが踊っているくらいだから、その方が悪い訳では全然ない。「ユニバーサルさん、確かに、ちゃんと、まさしく、正真正銘、この演奏はサントラ<盤>には使われてますよ」(笑)

※今日の発言の最後に、ちょっとした余談をふたつばかり。。。今、発売されている『2001年』のサントラCD(筆者の持っている物には、決定版とのクレジットがある)には、「映画の中で使われた音楽」としてカラヤンの演奏が、その後の「付録」の中に「オリジナルMGMサントラ・アルバムに収録されている音楽」としてベームの演奏が収められている。

※カルショウは、カラヤンがこの曲を録音するにあたり、パイプ・オルガンの音を別録りするなどして、非常に苦労したらしい(ピッチが高いウィーン・フィルに、オルガンの音を合わせるのは大変だったらしい。以上、前掲本p.280-281)。だからといって、当時はこの曲自体があまり一般の音楽愛好家には知られていなかったせいもあり、そのLPの「売り上げが、録音に要した時間と費用に見合うことはないだろうーーそう確信していた」という。ところが、思わぬことに『2001年』で同曲が使われて、この曲、特に冒頭部分は一躍有名に!。にもかかわらず、せっかく当該作品にカラヤン盤が使われたのに、そのことは自社のつけた条件によって公表できず・・・結果、他社が映画のヒットにあやかって「ツァラトゥストラ」のレコードを一斉に発売して「大儲けする結果になった」というのだから、本当についてない。このくだりを書いているカルショウは、いかにもこの顛末を残念がっているようで、自分が愛するデッカの「衰徴を示す一例」「無気力さの証明」とまで記しているくらいだ。

□ DECCA, UCCD-9506(カラヤン盤)、同,UCCG-4149(ベーム盤)

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2007年1月17日 (水)

バッハの故郷のヒューイット

 今日、本当は違うCDを紹介しようと思っていたのだけれど、仕事場からの帰り、車の中で聴いていた!DVDがあまりにすばらしかったので・・・急遽、変更してこれを書いている。

 というのも、半年ほど前にCSの「クラシカ・ジャパン」というクラシック専門チャンネルで、バッハの平均律クラヴィーア曲集を、4人の演奏者で12曲づつ引き分けるという番組を放送していて、これを録画したものを車に持ち込んでとりあえず音だけ聴いていたのだ(もともとは、2000年=バッハ没後250年という記念の年に、BBC放送で「24時間バッハ放送」という企画があったときの制作らしい)。このうち、第2巻の後半は、近年、バッハ弾きとして注目を集めているカナダ出身の女流ピアニスト、アンジェラ・ヒューイットの担当。その収録場所がなかなか凝っていて、バッハの故郷=アイゼナハを見下ろす山の上に建つヴァルトブルク城に、ピアノを持ちこんで撮影されているのである。ちなみにこのヴァルトブルク城は、中世伝説であるタンホイザー伝承で歌合戦の舞台となった城として知られ、1999年12月、ユネスコの世界遺産にも登録されたらしい。

 実はその城には、5年前の冬、ある偶然から僕もたずねていったことがある。知人のいたカッセルに滞在していて、近隣の都市まで鉄道ででかけた折に、同行した年上の友人と帰りの電車を乗り間違えて、かなり南の方まで行くはめになった。それならばと、急遽予定を変更し、バッハの故郷の街にまで足をのばしたのだ。事情が事情だからアイゼナハの駅に着いたときは、もう午後3時を過ぎていて、すぐさまタクシーでヴァルブルク城に向かい、ちょっと陽の落ちかけた山上の城を見学した。その後、あいにくバスもタクシーもないようなので、その城から小1時間ほどかけて、徒歩で凍った坂道をふもとのアイゼナハ市街まで歩いて!降りたのも、今になって思えばいい思い出である(そのときは、夕暮れも迫る中、こんな知らない土地で、山道に迷い込んだらどうなるかと、内心ひやひやものだったけれど)。

 この映像作品は、12曲の前奏曲とフーガの組み合わせごとに分かれ、それぞれがタイトルとエンド・ロールのついた短い12のミニ番組の体裁になっている。映像的に言えば、ヴァルトブルク城の大小さまざまな部屋で、まずヒューイットが曲について短いコメントを述べ、すぐに演奏が始まるというパターンのくりかえしで、一部(第21番の前奏曲等)をのぞいて特になにか演出めいた工夫や説明などがあるわけではない。カメラも部屋の外には出ないので、せっかく世界遺産で撮影しているのに観光ビデオ的に見ることもできない。しかし、それぞれの部屋や曲想により、ふさわしいライティングやカメラ・ワークが細かく考え抜かれていて、決して単調な印象はない(監督は、ペーター・マンフォード)。むしろ、バッハの音楽にだけ没入できる点では、最高のシチュエーションだろう。「城」といっても峰沿いの細長い土地に建てられたもので、長さの割には奥行きはそれほどない。小部屋では入り口も大きなものではなかったと記憶しているから、そこにグランド・ピアノを持ち込むにはかなり苦労もあったろうと思う。ちなみに、使用ピアノは、スタインウェイで、ヒューイットが愛用しているイタリアのファツィオーリではないようだ。

 それにしても、ヒューイットの演奏のすばらしさについては、もはや、ため息しか出ない。何ひとつ余計なものを足さず、しかし同時に、何ひとつ欠けるものもない・・・彼女はすべての曲を暗譜で弾いているが、バッハに、曲に、語らせる真摯な姿勢と、確かなテクニックとが、音楽のあるがままの美しさをまっすぐに伝えてあまりある。もちろん、フランス序曲風に始まる曲集第2巻の後半は、曲としても(一部、成立年代に前後はあるとしても)大バッハの作品中、一段と深遠なページがそこにあるのも確かだけれど・・・。例えば、第18番嬰ト短調の流麗なプレリュードとそれに続く長大な二重フーガを聴いていると、少なくともそれを聴いている間は、これ以上の音楽と演奏とが、ほかにこの世にあるとは思えないという気になってくる。

 この演奏を含む全2巻の曲集は、市販のDVDでも出ていたようだが、現在では入手が難しいかも知れない。少なくともそういう演奏を紹介するのは、僕としても心苦しいものがあるけれど、いつか再発売されたり衛星放送等でも紹介されたりすることも考えられるから・・・やはり、今日の記念に書いておこう。

□ Image Entertainment (DVD)

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2006年12月29日 (金)

『アマデウス』再訪

 仕事収めの日である。明日から休みとあって、小6の息子とのあいだで少し前から約束となっていた『アマデウス』のDVDを家族3人で見た。もともと長めの映画(160分)だが、ディレクターズ・カット版なのでさらに20分も長くなった。「今日はここまで」「あと少しだけ」などと家族で言い合いながら、結局12時過ぎまでかかって全部見てしまった。僕たち夫婦は3、4年に一度くらい見直しているが、子どもは今回が初めて。皇帝の御前にもかかわらず、サリエリ作曲の歓迎のマーチをモーツァルトが勝手に編曲してしまう場面など、コミカルな場面ではげらげらと大笑いしながらも、一方でラスト近くやつれたモーツァルトが寝巻き姿ですべりながらも歩く冬の風景では「なんか痛々しいなあ」と言いながら、真剣に見ていた(そう、モーツァルトは冬=12月に亡くなったのだ)。

 仮にこの作品をモーツァルトの伝記映画として見るならば(そういう見方は多分あやまりだろうが)、史実に沿っているだけでかえって効果をあげている場面も思いのほか多い(例えば、「フィガロ」のバレエ・シーンの復活エピソードや、「ドン・ジョヴァンニ」の上演シーンでのウィーン版での幕切れなど)。一方で、そうしたシーンと連続して、大胆に創造されたフィクション部分をシームレスに組み込んでいるので、そのことをもって「嘘っぱち」と非難する専門家もいる。でもそのフィクション部分は、伝記的な事実を意図的にちょっとずらしこんだ形で作られているので、モーツァルティアン向けの「ほのめかし」として読める類いのものだ。だから、むしろモーツァルトの手紙や記録を読んだことがある者ならば、「ははーん、あの素材をこんなふうに料理するわけか」とわかるわけで、結果的にモーツァルト関連の資料を知れば知るほどおいしい映画になっていると思う。一例をあげれば、「魔笛」の舞台上でシカネーダーが扮するパパゲーノがグロッケンシュピールを鳴らすまねをするまさにそのとき、モーツァルトが行った、とある有名な「いたずら」(これは、モーツァルトの手による現存する最後から2番目の手紙、1791年10月8、9日付けにある)を、「いたずら」ではないように読みかえたシーンなどその最たるものだろう。そして、その最大のフィクション、しかし最も効果的な「うそ」が死の床にあるモーツァルトから「レクイエム」の楽譜を、「ある人物」が口述筆記する場面であろう。もちろんこの場面も、モーツァルトの弟子のジュースマイヤーの役目を「ある人物」に置き換えているわけだ。コンスタンツェの妹、ゾフィー・ヴェーバーの証言にはこうある。

 「モーツァルトのベッドのそばにはジュースマイヤーがいました。それに掛布団の上には有名な『レクイエム』が置かれ、モーツァルトが、自分の考えはこうこうで、自分が死んだらそれを仕上げてくれるようにと、彼に説明していました。(中略) 彼の臨終は、まだまるで口でもって自分の『レクイエム』のティンパニを表そうとでもするかのようでして、私にはいまでもそれが聞こえてきます。」(モーツァルト書簡全集第6巻、海老沢敏・高橋英郎編訳、白水社)

 まだ映画を見ていない人ためにあえて詳しい描写は省くが、この証言から『アマデウス』の作者たちがどのような映画的かつ独創的なイリュージョンを生み出しているか、(もし見ていない方がこれを読んでいるなら)ぜひご自分の目で確かめていただきたい。この場面は、音楽的な観点から見ても、この映画の最大の見どころとなっているのだから。

 ちなみにディレクターズ・カット版について書けば、この版になって初めて理解できた部分もある。モーツァルトの死の直前、サリエリとはちあわせたコンスタンツェが彼を帰らそうとする場面で「お見送りする召使いもいませんが・・・」と言うが、このセリフの本当の意味は今回の版で新たに加えられたシーンを見なければわからない設定になっている。

 それにしても、監督ミロス・フォアマンの故国、ボヘミアの古都プラハで撮影されたというロケ・シーンの美しさは、何度見てもため息が出る。オペラの上映シーンが撮影されたのも、プラハのタイル・シアターという現存する!劇場だというから驚きだ。そして、誰もが言うことだが、全編に流れるモーツァルトの音楽の数々・・・これらがあいまって、この『アマデウス』は何度見ても飽きることがない作品に仕上がっている。

□ DLW36218(完全初回限定盤、最新版はSBE36218か)

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