2016年9月11日 (日)

2016年のタケミツ

 本日は、毎年地元で行われている音楽祭の最終日。マチネーで武満徹の「没後20周年記念」と題されたコンサートが行われたので、顔を出してきた。曲目と演奏者は以下のとおり。

1)「エア」 増本竜士(Fl.)
2)「海へ」 増本竜士(Fl.)、マルコ・デル・グレコ(Gt.)
3)「フォリオス」 マルコ・デル・グレコ(Gt.)
4)「フォー・アウェイ」 中川賢一(Pf.)
5)「雨の呪文」 上野由恵(Fl.)、上田希(Cl.)、松村多嘉代(Harp)、中川賢一(Pf.)、葛西友子(Perc.)

 冒頭は武満さんの遺作となったフルート独奏による「エア」。フルート担当の増本氏は、<代役>での登場とのアナウンスがあった。急遽、呼ばれたのかもしれないが実にしっかりとした演奏ぶりであり、ただでさえ緊張するトップバッター、しかもソロという重役を十二分に果たしていた。楽譜に細かく指定されたフラッター奏法等の特殊技法や、緩急・強弱の差はさほど強調されないのだが、その分、曲の簡素かつ精妙な曲の味わいが良く出ていた。特にヴィブラートをかけない清潔な吹き方は、好感が持てる。ギターのマルコ・デル・グレコが加わってもう一曲、「海へ」。音楽的にもつながりのある曲で、この曲順はなかなかすばらしい。全体に非常にすっきりとした造形で、リタルダンドやフェルマータの指定のあるところでもあまり粘らない(第1曲「夜」の最後、楽譜に「Very long」「dying away naturally」とある部分は、いかにもそっけなさすぎると感じないでもなかったが)。リズミカルな進行の場面では、勢いを感じさせるところもあり、このような武満もあるのかと非常に新鮮に聴けた。続くギター独奏の「フォリオス」は、この曲の献呈を受けた荘村清志氏の演奏で、同じホールで聴いたことがある思い出深い曲だ。そのときのいかにも決定版という印象の演奏に比べると、どうしても軽量級に響くが、これが現代の、「2016年のタケミツ」というものだろう。もっと思い入れを持った演奏を期待する向きも当然あると思うけれど。

 ピアノによる「フォー・アウェイ」は、ソステヌート・ペダルを多用したまさに<余韻>を聴くべき曲であり、こればかりはまさに実演で聴くべき曲だ。中川氏はテクニックも十分で、スタインウェイを良く鳴らしていた。最後の「雨の呪文」は、僕も初めて聴くアンサンブル曲で、ハープにヴィブラフォンが加わるその響きは、少し時代を感じさせないでもないが、その分、曲の構成は非常に緊密に書かれている(実際、1983年に初演されたらしい)。このステージのためだけに集まったメンバーだと思われるが、個人間のバランス・呼吸も良く合っていた秀演。

 「記念コンサート」と銘打たれてはいるが、聴き終わってみると全体で1時間ちょっとという体裁。演奏者も若手の方が中心で、余計な力みもなく淡々と演奏していた。現代音楽と言っても、演奏する方も、聴く方も、余計な力を入れなくて良いのは何よりのこと。武満さんの音楽も、いよいよ「古典」めいてきたということだろうか。

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2015年11月23日 (月)

「ア・ストリング・アラウンド・オータム」細川版

 すでに先々月のことになってしまったが、地元の音楽祭において、「ブラームスと武満徹 コンサート」と題したコンサートを聴いた。
 演奏曲目は、
・ブラームス「チェロソナタ 第2番」
・武満 徹「ア・ストリング・アラウンド・オータム」
・ブラームス「クラリネット五重奏曲」の3曲
 なかでも、武満作品については、細川俊夫氏による編曲バージョンとのことで、これははずせないと思い、少し前から楽しみに待っていた。「ア・ストリング・アラウンド・オータム」は、原作はヴィオラと管弦楽のための作品であり、フランス革命200周年記念行事として開かれた「パリの秋」フェスティバルの委嘱により作曲されたもの。初演者・今井信子のヴィオラ、小澤征爾・指揮、サイトウ・キネン・オーケストラ(Philips)のCDが有名だ。「埼玉アーツシアター通信 No.59」(2015年9月 - 10月号)に、その今井さんのインタビューが掲載されている。

 武満徹の作品は、彼女のために書かれた3曲中2曲を披露。両曲は交互に「ヴィオラスペース」のコンクールの課題曲にもなっている。
「《ア・ストリング・アラウンド・オータム》は、大編成オーケストラとのカラフルな曲を、細川俊夫さんがピアノ用に編曲してくれました。《鳥が道に降りてきた》は、委嘱作ではなく武満さんからのプレゼント。《ア・ストリング〜》を、ピアノと演奏できるようにしてほしいとの手紙を書いたのですが、返事はありませんでした。すると、あるパーティーで、武満さんが丸めた紙を持ってきて『ヴィオラとピアノのための曲を書き始めたんだよ』と。それがこの曲。こんなことは普通ないですよね。なのでいつも弾いてないと申し訳ない。ただコンクールの課題曲にしたことで世界中の奏者が弾くようになりました」

 いつもながら、武満さんの対応はおもしろい。そして、このインタビューにもあるように、編曲とはあるものの特に作品に手を加えたものではなく、曲の編成をピアノ伴奏用にしたものなのだろう。ショット社からオケ用、そしてピアノ用の両楽譜も出ているようだが、さすがにこれは持っていない。なので正確な比較ではなくて申し訳ないが、ヴィオラの独奏部分はどちらのバージョンもほぼ同じに聴こえた。今回のヴィオラ演奏は、赤坂智子氏。彼女は今井さんにも師事したことがあるらしい。ピアノは若手の津田裕也氏による演奏。赤坂氏はテクニックも確かだし、さすがによく弾き込まれている。オケ版のような音色の変化はさすがに出ないが、かえって曲の構成は見やすくなる。途中、何度か和声的な香りがふっと漂ってくるところなど、まわりの部分との対照を見事に浮かび上がらせていた。ちなみに彼女は来年(2016年)2月、山田和樹・指揮、日本フィルハーモニーのマーラ・ツィクルスで、第5番交響曲の前プロでこの曲のオケ版を弾く予定になっている。師の今井さんを継いで、今後、「この曲なら彼女」という存在になるのかもしれない。津田氏のピアノも単なる伴奏にとどまらない、腰の据わった好演。

 さて3曲目のクインテットは、ミヒャエル・ルティエック(クラリネット)、山根一仁(ヴァイオリン)、山田晃子(ヴァイオリン)、赤坂智子(ヴィオラ)、アンシ・カルトゥーネン(チェロ)、各氏の演奏。ルティエックのクラリネット演奏は今回初めて聴いたが、非常に個性的なもの。一般に管楽器は、息をできるだけ均一に持続して高音から低音まで一定の音で弾けるよう訓練するものだろう。しかし彼の演奏はまるで違う。ほとんど息の音のような最弱音や、尺八のようなかすれた音などを多用して、この曲から幅の広い表情を引き出していた。パブロ・カザルス音楽祭の音楽監督を務めている方らしく、久しぶりに<本物>の演奏家を聴いたという気がする。特に現代音楽などもっと聴いてみたいが、録音はないのだろうか。

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2014年9月 9日 (火)

ヒリヤード・アンサンブル最後の来日コンサート

 本日、地元の国際音楽祭に、ヒリヤード・アンサンブルが出演すると聞いて、さっそく行ってきた。1989年(だったと思う)に一度、同じホールで彼らのコンサートを聴いており、2度目の経験になる。そのときの体験は、私にとって生涯のベスト10コンサートにあげてもいいほどのすばらしさだったし、リリースされた主要なCDもその都度、買ってきている(このサイトでも彼らの演奏について2度ばかり紹介してきた)。今回は引退前の最後の来日公演ということで、「ソングブック」というコンサート・タイトルが示すように彼らの愛唱曲を中心としたメモリアルなプログラムである。最後の見納め、聞き納めになると覚悟して会場に向かった。

 白髪が目立つベテラン4人がステージに登場し、最初の曲ヴェリヨ・トルミス作曲「クレルヴォの言づて」が始まった瞬間は、正直「やはり」と思ったことを告白しなければならない。この日、ホールに響いたハーモニーに、コンマ単位まで合わせてきたかつての細密さ、声部の同質性は、もはや追及されていない。より人間的な、等身大の歌い手たちがそこにいる(名手ロジャーズ・カービー=クランプ(テノール)の声が、多分に強めに響いたのは、もしかすると私の座った席のせいかもしれない)。3曲目に歌われたコーニッシュの有名なテルツェット「ああ、ロビン」は、四半世紀前のコンサートでも歌われた曲であり、アルヴォ・ペルトの「スンマ」等と並んで当時、最も印象に残った曲だったので期待して聴いたのだが、やや生彩にかける歌いぶり。果たして今回の観客の皆さんは、どう聴いただろうか。

 続くイタリア語のマドリガーレはさすがによく練られたアゴーギクで聴かせる。が、前半最後の細川俊夫「3つの日本民謡」は、今年1月にシカゴで当夜の演奏者達によって世界初演された曲だそうだが、こうして日本で初演されてみると、手慣れたショーピース以外の何物でもない。すでに世界的な評価を得た作曲家にとって決して名誉にはならないだろうし、肝心の演奏もほころびが隠せない。むしろ、コーニッシュの後に歌われたイギリスの作者者不詳の曲「私を思い出して、いとしい人」が、メランコリックな響きがいつまでも耳に残るような好唱だっただけに、雰囲気が近いタリスのモテットなどを選曲した方が、均整さより歌の深みで勝負する今の彼らにふさわしかったと思わないではなかった。

 とはいえ、休憩後の後半は調子を取り戻した感があり、ペロティヌス作曲の有名なオルガヌム(4声版)「地上のすべての国は神の救いを見たり」が、あんなにもリズミカルに、しかし中身のつまった「音楽」として歌われたのは、やはりめったに体験できないことに違いない。カウンター・テノールのデイヴィッド・ジェイムズが、まるでポップスを歌っているかのような乗りで演奏を引っ張っている。さらにペルトの「さて、パリサイ人のひとりが…」は、さすがに歌い抜かれているのだろう。ペルト独特のティンティナブリ(鈴鳴らし)様式の曲を、静謐さと神秘性を兼ね備えた万全の演奏でホールに響かせた。このあたりではすでに、前半に聴かせたようなほころびも目立たないし、特にバスのゴードン・ジョーンズは、ソロ(イエス役?)でも立派な声を聴かせる。

 アルメニアの聖歌を数曲はさみ、コンサートの最後に歌われたのは再びペルトの曲。ヒリヤード・アンサンブルのために書き下ろされた「いと貴き主の御母」という題の小曲で、冒頭、長い嬰へ音に始まり、ロ短調の音調で「Most Holy Mother of God」という歌詞が繰り返される和声的な曲である。これは先の「さて、パリサイ人のひとりが…」などよりずっと時代の下がった新し目の曲だろうと思う。が、かつて切り詰めた音で極北の音楽を奏でた作曲者アルヴォ・ペルトのたどりついた新たな境地が、このようなインティメートな小キャロルであったとしたら、私たちはやはりそれを驚きを持って聴かねばならないのではないか。いや、この曲がヒリヤード・アンサンブルにとっても、長い音楽生活を経た後にたどりついた最後の境地でもあることは、この5分足らずの曲を過ぎ去っていく時間を惜しむようにゆったりとしたテンポで歌っていく彼らの姿が物語っている。そうであってみれば、これ以上何をも言うまい。聴き手はそれを、目を閉じ、こうべを下げじっと聴き入るほかないのだろう。最後のロ短調の終止和音が何かの形見のように響き、やがてホール上空の暗がりにそっと消えてしまうまでのあいだ。

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2012年6月24日 (日)

森麻季 今このときのヘンデル

 本日、地元であった森麻季独唱、ミラノ・クラシカ合奏団の演奏会「イタリア・バロック紀行」に出かけていった。僕としては森麻季さんの歌うヘンデル・アリアがたっぷり聴きたかったのだが、さすがにそういうプログラムでは人は呼べない。かといってバロックうんぬんといった内容のないタイトルに加え、前半はそのヘンデルのアリアとコレルリなどの器楽合奏曲を交互に演奏、後半はおなじみの『四季』という組み合わせだから、あまり落ち着いたプログラムとも言えない。例の『坂の上の雲』の主題歌で彼女を知ったという方も多いだろうから、そういう人にはとっかえひっかえ多様な音楽が聴けて飽きないのかもしれないけれど。

 彼女は、体つきも少しふっくらとした感じで、今が本当の「歌い時」「聴き時」なのだろう。そのことを本人もよくわかっているようで、歌うことの楽しさが声から、身体からあふれている。実際に、あれだけ声が伸びやかに出せれば、歌っていてさぞ気持ちがいいだろう。それでいて、プリマ・ドンナにありがちな無用な自己顕示や誇張はまったくない。だから聴いていて、いやみがない。それはこの人の最も根本にある美点だろう。全体にディクションよりも音楽重視。もしかして少し音符をつなげ過ぎという批判もあるかもしれない。が、そういう歌唱こそがまるで虹のような美しい旋律線をホール内に浮かび上がらせるのだから、そこはないものねだりというものだろう。その意味では綿綿と美しいメロディーが続いていくヘンデルは、今の彼女にぴったりだ。曲目は、以下のとおり。

歌劇「エジプトのジュリアス・シーザー」からクレオパトラのアリア“つらい運命に涙はあふれ”
オラトリオ「時と悟りの勝利」からアリア“神によって選ばれた天の使者よ”
歌劇「セルセ」から“オンブラ・マイ・フ”
歌劇「リナルド」よりアリア“涙の流れるままに”

 これらの曲のあいだに前述のように器楽合奏曲がはさまり、第一部の最後に、ヴィヴァルディ作曲モテットRV.630“まことの安らぎはこの世になく”が置かれる。歌劇からの3曲は、彼女のデビュー・アルバムや既発売のヘンデル・アリア集にも収録されていて、すっかり手の内にはいったもの。“つらい運命に涙はあふれ”の中間部に出てくる急速なコロラトゥーラ部分も、軽やかにこなしている。“オンブラ・マイ・フ”は、ヘンデル・アリア集では後半部分をかなり修飾をつけて歌っておりちょっと違和感があったが、今回はまったく普通の歌唱である。その方がいいように思う。一番の聴きものは少し珍しい「時と悟りの勝利」からのアリアで、正統的であってかつじっくりと歌い抜いた歌唱は、彼女の最良の美質を示していた。合奏団のソリストであるエンリコ・カサッツア(Vn)のオブリガートも、やわらかい音色で歌にからんでくる。第一部終了時のカーテン・コールで、舞台そでで背中を向けたままなかなか出てこないと思っていたら、どうやら指揮者とアンコールの打ち合わせをしていた模様。このあと「時と悟りの勝利」からのアリア“神によって選ばれた天の使者よ”をもう一度くりかえしてくれた。ここでは一層弱音を効かし、最後も消え入るように最弱音で終わらせる。このままの時がいつまでも続けば・・・と思う瞬間であった。

 合奏団は、1stVn4人、2ndVn4人、Va2人、Vc2人、Cb1人の弦セクションに、チェンバロという編成。ノン・ヴィブラートながら、弓を古楽風に短く持つ人もいれば(2ndVnトップ)、トップに座ったカサッツア氏のように自由な、ソリスト・スタイルで弾く人もいる(この人は正式な団員ではないのかも)。均一な音、そろったアタックを求めるというより、やわらかいざわざわという感じのするアンサンブルのつくりである。新しいといえば新しいタイプなのだろう。ちなみに指揮・チェンバロのジャンルカ・カプアーノは、かなり奥まった位置に観客に完全に背を向けた形で座っているので、歌やソロ・ヴァイオリンといったソリストたちとは視覚ではコンタクトがとれない。その意味では、後半の『四季』では自然とソロ・ヴァイオリンがアンサンブルの中心になり、イネガル奏法などを駆使しながら極限まで緩急をつけて盛り上げる。とはいえ、チェンバロ自体は実に禁欲的ながら、低弦とともに音楽の基盤をしっかり握っている。その控えめな、しかししたたかな姿勢が逆に印象に残った。

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2010年1月19日 (火)

METライブビューイング初体験

 今晩、出張のついでに一日早く上京し、羽田から銀座の東劇に直行、METのライブビューイングを見てきた(この記事はホテルで書いている)。本日の上演タイトルは、『トゥーランドット』。昨年末、デアゴスティーニのDVDオペラコレクションで見たばかりのプロダクト(ゼッフィレッリ演出)だしどうかとも思ったけれど、マリア・グレギーナのトゥーランドットが聴けるという誘惑に負けた形だ。館内は予想に反して、結構空いている。おかげで、中央通路のすぐ後ろの席でゆったり足を投げ出して、しかも白ワインを場内に持ち込んでのオペラ鑑賞!。こればかりは、本場のメトでも真似できまい。

 「ライブビューイング」というタイトルだから、舞台そのままが映っていると思いきや、市販のオペラDVDと同じ、いやそれ以上にカメラワークが凝っている。個人的にはもっと舞台全景を見たかったという気もするが、舞台すれすれから奥の登場人物を見上げるアングルや、天井からの俯瞰画面など、大抵のDVDよりかえって映画的な見せ方をしている。音響的にも、あまりホールの残響は拾わず、歌手の声をうまくクローズアップしている印象。昨年11月7日の公演の録画らしいが、編集の手を経ているとはいえこれが本番一発の収録なら、かなり高度な技術陣が手がけているに違いない。また、幕間にインタビューをはさんだり、休憩時間に舞台裏のセットの取り替えや客席の様子を映し、次の幕が始まるまでの残り時間をすみっこに表示する工夫は、なかなか臨場感があってよい(画面にメトの映像が映されているのに、映画館内も同時に休憩中なので、みんなトイレやお茶をしに自由に出ていく、という一見奇妙な光景にあいなる)。

 肝心の音楽より舞台の話ばかりで恐縮だが、ゼッフィレッリの豪華な舞台を大画面で見ることができるのは、何よりすばらしい。群衆の中のダンサー(エキストラ?)と合唱団員の混じり具合や、それぞれの表情まで非常によく見える。またセットの裏側の様子や、メトの巨大な舞台裏もたっぷり見れたのは大収穫だ。床面の形状がまったく変わる第1幕から第2幕の転換は、裏方さんたちは本当に大変だろうと実感できる。実際、第2幕第2場で黄金の宮殿セットがいきなり!現れる場面では、劇場内の観客から驚きの声と拍手があがる様子が映っている。

 ということでやっと音楽だが、やっぱりグレギーナの声はすごい!。スピーカー越しながら、他の誰よりも音圧が強く、声が録音レベルのピークいっぱいいっぱいにほぼ達している。今、一番旬のトゥーランドットだろう。DVD版のエヴァ・マルトンと比べても、歌・演技の幅がひとまわり大きいと思えるくらい。終幕後ももちろん大喝采を受けている(この人は、ブリュンヒルデは歌わないのか?)。ティムールは、サミュエル・レイミー。もったいないというか、あんまり聞いたことのないような配役だが、若いときにニューヨーク・シティ・オペラで歌って以来、かなり久しぶりの同役だと、本人がインタビューで語っている。さすがに堂々とした声の、いくぶん元気な老王になっている。リュー役は、ロシア出身のマリーナ・ポプラフスカヤ。声も演技も申し分のない出来で、彼女が歌うと会場全体が息をひそめて見入っているのがわかる。DVD版のレオーナ・ミッチェルといい、このポプラフスカヤといい、メトはいいリューを見つけ出してくるものである。カラフ役のマルチェッロ・ジョルダーノは、やや軽めの声で最初は?と思わせるが、高い声はよくのびるのでまあ安心して見ていられる。逆に「誰も寝てはならぬ」の最初で、この歌詞を2回くりかえすところでは、2回目のオクターブ下げた箇所で十分声が出ていないのは仕方がないだろうか。ちなみにラトヴィア出身の若い指揮者アンドリス・ネルソンスは、この曲の最後でジョルダーノが歌いきったあと、音楽を一瞬断ち切り、会場の拍手を待って、また始めるという超荒業!を見せていた。2幕の謎解きの場面など、緊迫した音楽の運びで、長丁場でも緩みを見せない。個人的には「ちょっと間合いが早い」と思う箇所もあるけれど、レヴァインの響きの美しいやわらかな指揮とは、また違った魅力がある。全体として、プレミエから随分たった舞台にもかかわらず決してルーティン・ワークに陥ってはいない。むしろ若い出演者たちにより新鮮味を加えているところは、さすがにメトの底力を感じさせる舞台になっている。というわけで、初めてのライブビューイングは、十分楽しめた。また機会があったら、見に行こうかな。

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2009年8月24日 (月)

今井信子のゴールドベルク変奏曲

 毎年、地元で開催されている国際音楽祭で、ヴィオラの今井信子さんが出演し弦楽三重奏版の『ゴールドベルク変奏曲』が演奏されるというので行ってきた。ヴァイオリンはルーマニア出身のミハエラ・マルティン、チェロはスウェーデン出身のフランス・ヘルメルソンという組み合わせ(なぜかプログラムには書かれていないが、3人は「ミケランジェロ・カルテット」という弦楽四重奏団のメンバーである)。今夜の演奏曲はこの『ゴールドベルク変奏曲』1曲だけだから、実質1時間ちょっとのミニコンサートという体裁。が、3000円で世界の今井信子のバッハが聴けるのだから、十分元はとれているだろう。

 会場は、今は合併して市になったが、かつては人口1万人に満たない町の多目的ホールである。曲が曲だけに入りが心配だったが、なかなかどうして。平土間部分の真ん中はほぼ満席という状態。カイザーリンク伯爵専用の就寝の音楽だったにもかかわらず、演奏中の会場を見渡しても意外にお休みになっている姿は少ない。長く芸術で町おこしをしていたおかげか、この小さな町の観客レベルはかなり高いのかもしれない、などと思わないではいられない。直前の席には、数年前までF県自慢の音楽堂で活躍されていたH氏の姿も見かけたし、音楽祭の主会場で行われるメインプログラムではないものの、密かに注目されていた演奏会なのだろう。やっぱり、本物は本物。誰にとっても、どこで聴いても、良いものは良いのだ。

 さてその演奏だが、基本的に変奏曲の前半は繰り返し、後半は繰り返しなしという構成。第2部(第16変奏〜)の前で3、40秒ほどインターバルをとったほかは、全曲が続けて演奏された。今井さんのヴィオラは、さすがに深々とした渋い音色が印象的だ。ヴィブラートを控え気味にし、もう少し歌わせてもいいかなという手前で、故意に引いている。表面上の仕上げの良さには背を向けて禁欲的に音を重ねてくる様は、例えは悪いが昔のモノクロ映画に登場する剣の達人を思わせるような静かな迫力がある。そのかわり、第26変奏やクォドリベート(速い!)では3人とも一転してリズミックに弓を弾ませるので、弦楽ならではの色彩感がかえって際立ってくる。弦楽三重奏版でこの大曲を聴くのは実演では初めての経験だったが、声部のからみもチェンバロ版とくらべても格段に良くわかる。決してオリジナルの魅力を損ねていないというのが、正直な感想だ。

 3人の奏者は演奏後も満場の拍手を受け何度もステージに呼び戻されたが、ヴァイオリンのマルティンさんが「さあ、どうしましょう?」という感じで右手の掌を上にしたのを機に、「アンコール嫌い」の僕は途中で席を立った。いったい、あの2度目のアリアが帰ってきた後で、どんな音楽が演奏できるというのだろう。いや、どんな音楽が聴けるというのだろう。果たして、ドアに向かう僕の背中で拍手は鳴りやんだ。やっぱり、みんな同じ気持ちだったのか・・・

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2009年6月17日 (水)

新国立劇場の『チェネレントラ』(その1)

 今日の午後、新国立劇場でロッシーニの『チェネレントラ』を見ることができた。ヴェッセリーナ・カサロヴァのアンジェリーナ(いわゆるシンデレラ)に加え、アントニーノ・シラグーザが王子ドン・ラミーノを歌うというので、音楽雑誌等でもかなり注目されていた舞台だ。平日の午後というのに、会場はほぼ満席。さすがに僕のような男性客は少なく、女性が7〜8割を占めている。平均年齢もかなり高めで、最近、あちこちで年長組になることが多い僕も、さすがにここでは「若手」の部類だ。ちなみに僕はといえば、午前中から四ッ谷で会議があり、終了後、お昼抜きで新宿に出て、新国立劇場デビューを果たすことができた次第(さぼりではありませぬ)。

 6回公演のうち5回目ということで、プロダクションとしてもさすがに落ち着いた出来。スター級の歌手が出ているにもかかわらず、アンサンブル重視の丁寧なつくりという印象である。歌の力や音楽の躍動感によって手に汗握るようなロッシーニもあって、そういう舞台ももちろん素敵だ。例えば、チェチーリア・バルトリが扮するチェネレントラは、物語の初めから自分が「ヒロイン」であることを、歌でも演技でも主張する。この主人公は今は灰をかぶっていても、やがて宝石のように輝く本当の自分を堅く信じているかのようである。その結果、物語は自らの手で「勝利と戴冠」をつかみとってくるサクセス・ストーリーになる。ところが、今回のカサロヴァの舞台では、深々とした低音とささやくようなメッツァ・ヴォーチェが歌に陰影を与え、物語がかなり進んでも「孤独と諦念」が支配的である(実際、演技でもあまり笑わない)。終幕近く、舞台中央にウェディング・ドレス姿でカサロヴァが立つ場面では、ようやくプリマ・ドンナらしい華やかな存在感を示すが、それでも「こんな姿の私は、本当の自分ではない」とでも言いたげな微妙さが表情に残っている。その意味では、カサロヴァのチェネレントラは、いわゆる「シンデレラ・ストーリー」などではなく、自分を虐げてきた家族との「和解」をつつましく讃えるある種ドメスティックな物語と言える。みんなそろって家族写真を撮るという大詰めの趣向もこの場合まったくぴったりで、見ているこちらも思わず「ほろり」ときてしまった(出演者たちも、ここではまるで本当の家族のように幸せそうだ)。

 その演出・美術は、名匠ジャン=ピエール・ポネルの優れた遺産のひとつだろう。具象的な舞台装置や音楽(音型)にあわせた振り付け方法など、時代を感じさせる部分も多分にあるけれど、あちらこちらで見せる細やかな配慮はさすがと言える。ちなみにCSのクラシカ・ジャパンを見ることができる方なら、これとほぼ同じ演出・美術の舞台(2005年、ミラノ・スカラ座)が今現在、放送されているから、彼独特の軽妙で抒情豊かな演出を楽しむことができる。こちらも、ソニア・ガナッシ(アンジェリーナ)、ファン・ディエゴ・フローレス(ドン・ラミーノ)というこれまた魅力的な配役だし、7月5日、12日にも放送予定がある(ポネル演出の『チェネレントラ』では、僕は未聴だがアバドのDVD=同じくスカラ座の記録もある。ただしこちらは映画版)。

 カサロヴァの役作りと演出について書いているだけで長くなってしまったので、出演者たちの歌についてはまた次回に。

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2007年3月 9日 (金)

フォルクレを弾く古賀裕子

 地元の文化センター小ホールで、チェンバリストの古賀裕子氏のリサイタルを聴いた。古賀氏は、桐朋学園古楽器科出身で、グスタフ=レオンハルトやジョス=ファン=インマゼールにも師事。 近年は、「バッハチェンバロ独奏曲全曲チクルス」を手がけており、このチクルスはうちの市でもすでに何回も開かれているが、僕が聴くのははじめて。今回は、一転、そのバッハにクープラン、ラモー、フォルクといったフランスものを取り混ぜたにぎやかなプログラムだが、途中、演奏者による短かな解説も交えて、その分アットホームな会になった。まず第一部の冒頭をバッハ「パルティータ第1番」のプレリュードで始め、あいだにラモーの新クラウザン曲集からの小曲をいくつかはさんだあと、再びバッハの「最愛の兄の旅立ちのためのカプリッチョ」に。最後にクープラン(ルイの方)の「組曲ニ短調」で休憩となる。第2部をプレリュード代わりにバッハ「イタリア協奏曲 第一楽章」 ではじめ、今度もラモーの小曲を4曲弾いた後、フォルクレの「第3組曲 ニ長調」からの3曲で締めるという構成。これはこれでなかなかよく考えられており、聴く前に考えていたのより実際に聴いてみると、やはり非常におもしろかった。特に、最後にフォルクレを持ってくるあたりは、かなり自信がないとできないことではないか。

 さて、肝心の古賀女史の演奏は、実に丁寧な仕事だ。細かなテンポの緩急を多用し、入り組んだ声部の中からフレーズを彫りおこしてくるのだが、それが決して表面的な演奏に終わらず、時に意欲的な表現も見せる。例えばバッハの「イタリア協奏曲」では、冒頭4小節目にある4分休符を、いきなり「演奏が停まった?」と思わせるくらい長めにとって、次にくる全奏と大きな対比を作る。確か鈴木雅明氏も、CDによる演奏で、この休符を長めにとって強調していたが、せいぜい2倍か3倍くらいまでだ。このあたりのちょっとした「あざとさ」は、僕はきらいではない。ただ、その後も、同じ音形がくりかえされるような箇所では、各フレーズの終わりに向けてどんどんと追い込んでいき、音楽を少しも休ませないので、そこに「豊かさ」が出てこない。僕も「バッハはインテンポで」などという意見にはもちろん組しないが、それでもそこにもう少しバッハを聴いているときにのみ感じられる大きさ・包容力を求めたくなる(もっとも、今回は曲目が曲目なので、古賀氏のバッハ演奏について決定的な物言いはもちろんさけるべきだろうけど)。

 この点で言えば、フォルクレの方は、今の彼女の行き方にぴったりだ。曲の構成もバッハと違い感情の起伏や即興的なテンポの揺れを受け入れやすいし、富山県から運んだというチェンバロも粒立ちのいい音でよく鳴っていた。今回の彼女の演奏は、父親のアントワーヌ・フォルクレ作のヴィオラ・ダ・ガンバ曲を、息子であるジャン・バティスト(=アントワーヌ)・フォルクレが全5曲のクラブサン組曲に編曲(3曲を追加)、出版した版によっている。ちなみにリサイタルのちらしには作曲者として「アントワーヌ・フォルクレ」の名があり、当日、会場で配布されたプログラムちらしでは「ジャン・バティスト・フォルクレ」のクレジットがあった。実際に彼女が演奏したのは、「組曲第3番ニ長調」の中から、父親作の「La Regente(摂政)」、息子作の「La Angrave」「La Morangis ou la Plissay」の2曲という組み合わせである(だから表記的にはどれも正確とは言えない)。ガンバ・バージョンをそのまま移調せずにクラブサン用に移したことで、中域に厚みのある、音符の多い曲になっていることもあって、ラモーやクープランなどの典雅な曲とは違った魅力がそこにはある。そうした中にあって、古賀氏の演奏は、錯綜する声部を整理しながら、そこに秘めた情熱を浮き上がらせる、そのバランス感覚がすばらしい。特に最後の曲はシャコンヌ形式で書かれており、かなり長いし、曲調の変化もかなり複雑だ。リサイクルの最後に、古賀氏は高い集中力と確かな技巧でもってこの難曲を弾ききり、観客の大きな喝采を浴びた。

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