バッハ・フロム・ベネズエラ
昨晩、ベネズエラ出身でベルリン・フィルの若きコントラバス奏者、エディクソン・ルイースと、そのパートナー、ヴァイオリニストのヴェロニカ・エーベルレの二人をフィーチャリングした演奏会を聴いた。地元で毎年行われる国際音楽祭の一夜だが、この音楽祭は演奏家がコンサート・プロデューサーを務めているせいか?、例年、参集したアーティストたちの都合で曲目が決まっているのかのような「演奏家ファースト」のプログラミングが多い。が、今夜はそうではない。確かに全世界で活躍中の名手たちであり、当夜のコンサート・タイトルも「エーベルレ&ルイース/超絶のヴァイオリンとコントラバス」などという通俗的なものになってはいる。しかし、J.S.バッハの独奏曲を前半に置き、後半にはベネズエラゆかりの作曲家によるバッハにインスパイアーされたアンサンブル曲を持ってくるという他にはない構成が、まず異彩を放つ。ここでは、演奏家はあくまで音楽作品を紹介するという控え目な立場であり、そのためにすべての技術・鍛錬はあるのである。
最初は、バッハの「無伴奏チェロ組曲」第1番ト長調 BWV 1007 を、ルイースがコントラバスで弾く。近年、無伴奏チェロ組曲をコントラバスで弾く例はそれほど珍しくはないが、実演で聴くのは初めて。ルイスは椅子等を使わず立ったまま、つまり長身を深くかがめ楽器に覆いかぶさるような態勢をとる。そして、ほとんど曲全体をコマに近い通常使わないようなハイポジション、つまりチェロと同等の高い音域で弾くわけで、難易度はかなり高めである。その上で、最初のプレリュードの分散和音からルバートを効かせ、まるで語るような演奏を聴かせる。直接的な影響というわけではないが、ちょっとチェロのビルスマを思わせるようなスタイルだ。旋律を朗々と歌わせるというより(そうしたいと思えば彼はできたはずだが)、アーティキュレーションや緩急に気を配った個性的なバッハ。自分がなぜこの楽器でバッハを弾くかという点につき、真摯に考察した結果だろう。
2曲目は、エーベルレによる「無伴奏ヴァイオリン・パルティータ」第2番ニ短調 BWV1004。速めのテンポで、しかしレガートな部分とリズミックな部分の対比をはっきりつけて進むスタイリッシュなバッハだ。クーラントやジーグでの圧倒的に速い音符の流れは、左手の正確なフィンガリングと右手の自在な弓使いに裏打ちされている。最後のシャコンヌも決して粘らないが、打楽器的に響く重音など気迫は充分であり、即興的な側面にも欠けていない。いっしょに聴いていた細君が、休憩時に「ヴァイオリンの音がきれい」と言うので、帰宅後、調べてみたら、使用楽器は日本音楽財団から貸与されているストラディヴァリウス「ドラゴネッティ 1700」ということだった。個性的な低音と澄みきった高音はストラドの名に恥じないものだが、楽器の音を聴かせるというより、自分の音楽を聴かせるという意欲が勝っている点が、潔い。
休憩を挟んだ3曲目は、ウルグアイに生まれベネズエラで育った作曲家、エフライン・オシェールの「パッサカリア、バッハによるパッサカリア ハ短調 BWV 582 に基づく」という曲の日本初演。ヴァイオリンとコントラバスという、通常はあまり聴くことない音高差によるデュオとなる。が、ここではまったく違和感なく響くどころか、完全に対等のパートナーとして二人は舞台上に立っている。バッハのパッサカリアの旋律は、最初はバスに出るが、その後はヴァイオリンに移ったり、南米の舞曲の中に潜んだり、自在に飛び交う。曲としてもそうなのだが、演奏としても前半のそれぞれが弾いたバッハのエコーが耳に残っている中で聴くことで、極めて重層的な音楽的感興を誘う(それは、プログラミング上の狙いでもある)。二人の演奏ぶりは、アーティキュレーションやデュナーミクの統一感が半端ではなく、まるでフィギュアスケートのベア競技を見ているかのような箇所もあった。まさに、このデュオのレーゾンデトール的な曲。
最後は、先述の二人に葛西友子(パーカッション)が加わり、トリオ編成で、ベネズエラの作曲家、ゴンサーロ・グラウの「RUMBAch」(<<コンサートでの表示)が奏された。こちらは原題に「Suite "RumBach" for J.S.」あるとおり、バッハの組曲を模した6つの楽章からなり、それぞれがルンバなど舞曲のリズムで奏でられる。様々なジャンルの音楽が入り混じっているが、それこそが自由な精神の「組曲」になっている。演奏も実に見事なもので、細部に到るまですでに彼ら自身の音楽になっている。
観客を置き去りにして「どこにも連れていかない」演奏会も多い中、当夜、彼らの主張は、実にはっきりとしている。「南米ベネズエラには、こんなバッハが今も生きている」・・・そして「バッハはどこにでもいる、あなたの中にも!」。
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